最近、ネット上でよく見かけるようになった意見に「家庭料理に、完璧さを求めすぎなくていい」という意見があります。

この話、言われてみれば本当にその通りだなと思う。

こういう生活に根付いた日々の感覚を守ることは、本当に大事だなと思います。

毎日のごはんは、なにも毎回「おいしさの最高到達点」なんか目指さなくていい。

ちゃんと食べられることや、無理なく続けられることのほうが、圧倒的に大事。

作る側も、作ってもらう側も、そこに過剰な理想を持ち込みすぎないことが大事だと語れることも多いですが、これは本当にその通りだと思います。

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特に今の時代は、何をするにも、すぐに「理想の見栄えが良いかたち」が自分のスマホ上に流れ込んできてしまいますからね。

料理ひとつとっても、手際よく、美しくて、栄養バランスも良くて、しかも食卓が楽しそうであるべき、みたいな空気がそこら中に漂っている。

でも、そんなものを毎日守れるひとたちばかりではないし、日々忙しいのだから守れなくて、当然です。

むしろ、理想が高すぎるからこそ、現実がぶっ壊れてしまう。作るひとばかりが疲れてしまう。

そして、気づけば、ちょっとした「今日はもう無理かも」が、そのまま自己嫌悪に変わってしまう。そういうことのほうが、よっぽど問題なのだと思います。

理想を高く掲げすぎて、毎日の生活そのものが回らなくなってしまったら、意味がない。

だったらまずは、ちゃんと続くこと、破綻しないこと、暮らしが持つことのほうを優先する。

それは、いまの時代を生きるうえで、かなり切実で、まっとうな知恵だと思うのです。

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ただ、そのうえでなお、最近どうしても気になってしまうこともあります。

そして、ここからが今日書きたい本題でもあります。

それは、こういう「健全な現実主義」が、ときどきそのまま「どうせ理想には辿り着けないんだから、最初から理想なんていらない、捨ててしまえ」という方向にまで流れてしまいかねないということです。

ここには、かなり大きな飛躍があるような気がしています。

現実を守ることは大事。むしろ今は、それが何より大事な場面も多い。理想が人を追い詰めるなら、その理想はいったん緩めたほうがいい。

でもだからといって、指針として持っていたはずの理想まで壊してしまっていいのか。その問いは、また別ものとして残り続けるはずなんですよね。

僕が言いたいのは、理想を掲げて、自分や他人を追い詰めようという話ではありません。

そうではなくて、理想を押しつけないことと、理想を失わないことは、本来まったく別の話なんじゃないか、ということです。

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この二つは、似ているようでまったく違う。

ここで大事なのは、現実と理想の役割を分けて考えることなのだと思います。

現実の役割は今日、この場所で、心身を壊さずに自分たちの生活を「存続」させることです。

これは、生きていくうえでどうしたって必要なことです。

一方で、理想の役割は別のところにある。それは、自分がどこへ向かいたいのか、という「尊厳」を守ることです。

どんなに疲れていても、どんなに完璧には届かなくても、それでも「本当はこうありたい」「できるなら、もう少し良くありたい」と思う感覚まで手放してしまったら、人はただ存続するだけの無意味な存在になりさがってしまう。
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だから、現実は存続のために必要であり、理想は尊厳のために必要なのだと思います。

そして厄介なのは、この二つが対立することそのものではなく、役割の違いが見えなくなったときに、片方が、もう片方も同時にぶち壊してしまうことです。

理想が強すぎれば、存続が壊れる。でも、現実ばかりが優先されすぎれば、今度は尊厳が壊れる。

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そして、これは料理の話だけじゃない。仕事でもそうだし、健康でもそうだし、人間関係でもそうだし、共同体の運営でもそうです。

あまりに高い理想を掲げてしまえば、そこにいる人々は疲れてしまう。

でも、疲れたからといって理想そのものを捨ててしまえば、今度は全部がその場しのぎになる。

たぶん大事なのは、完璧を求めることではなくて、「不断の努力を惜しまないこと」なんだと思います。

理想的に飾ろうとすること自体を完全に否定したいがために、捨てなくてもいい理想まで捨て去るのはもったいない。

その気持ちは、誰かを裁くためのものではなくて、自分たちの歩く方角を照らすためのものだったはずだからです。

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ここで思い出すのが、以前書いた「後ろ向きの北極星」の話です。


北極星には、たぶん一生辿り着けません。でも、辿り着けないからといって、それが不要になるわけではない。

むしろ、辿り着けないからこそ、それは「目的地」というより、「方角」を示すものとして大事になるだと思います。

理想というのは、きっとそういうものなんですよね。

現実の生活は、そんなにきれいにはいかない。毎日の食事だって、仕事だって、人付き合いだって、理想通りにはならない。

でもだからといって、北極星まで消してしまったら、今度は何を頼りに歩けばいいのかわからなくなってしまうわけですから。

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以前、このブログの中で、カントの「統整的理念」と「構成的理念」の話にふれたことがありました。

あの話もかなり乱暴に言い換えるなら、人間には、到達不可能でも、それでも持っていなければならない理想がある、ということだと思います。

ただし、それをそのまま真正面から「実現すべき目標」として握りしめてしまうと、危うい。すぐに挫折して、すべてを投げ出したくなってしまう。

だから大事なのは、到達不可能な理想を理想として持ちながら、現実のレベルでは、実現可能な範囲で丁寧に形にしていくことなんだと思います。

今回の話も、まさにそれに近い。

毎日の食事は、無理なく続けばいい。これは現実を守るために必須の感覚です。

でも同時に、「それでも、少しでも良いものを目指したい」という気持ちまで捨ててしまわなくていい。

この二つは、本当は両立するはずなんです。

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そしてこのことは、「生活」と「暮らし」という言葉の本質的な違いもあるのだと思います。

過去10年以上、僕が常々主張し続けてきたことでもあります。


「生活」は、今日この場所で破綻せずに回していくためのものです。ちゃんと食べること、眠ること、働くこと、そうやって日々をなんとか持たせること。これは、生きていくうえでどうしても必要です。

一方で「暮らし」という言葉には、もともと少し特別な響きがあるのだと思います。

たとえば花森安治が創刊した雑誌『暮しの手帖』なんかがまさにそうだったように、「暮らし」は単なる日常の言い換えではなく、戦争や大量消費社会へのカウンターとして、もっと人間的な生のあり方を守ろうとする言葉でもあった。

だからこの言葉には、いつもどこか倫理的で、清潔で、少し理想化された響きが最初から宿りやすいのだと思います。

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そして時代が進むにつれて、テレビを中心としたマスメディアは、その「暮らし」をさらに見栄えのするものとして規範的に語るようになった。

美しく整った部屋、センスのいい道具、手間ひまをかけた食卓などです。もちろんそれ自体が悪いわけではないけれど、そういう虚像(記号)ばかりが前に出てくると、日々をなんとか回している側からすると、どうしても息苦しさが出てくる。

だからこそ、そこで改めて「生活」という言葉が力を持つ。

理想化された暮らしに対して、もっと地に足のついた、破綻しない日々の営みとしての生活を引き受けようとする感覚です。

「生活」というキーワードを打ち出してきた「ほぼ日」の魅力なんかも、そこにあったのだと思います。

マスメディアが理想化しすぎた人々の暮らしに対する、やわらかいアンチテーゼとして、ネット上でもっと肩の力の抜けた、でも現実に根ざした日々のあり方を差し出した。

人々の中にある無意識の痛み、つまりユーザーペインに見事に応えたわけです。インターネットはいつだってこの「生活」側と相性がいい。

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それに対して、暮らしはそれだけではない。

どんなふうに生きたいのか。何を美しいと思うのか。何を大切にしたいのか。そういう、存続の先にある尊厳の感覚にかかわっている。

そしてこれは本来、他者から強要されるものではなく、一貫して自己が目指し続けるものであるはずです。花森安治もソレを目指していたはず。

でも、あまりにも理想を規範的に押しつける人々が増えるから(そしてできないときほど、そう感じ取ってしまう私もいるから)「生活」のほうが重視される。

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いまSNSで広く共有されるのも、多くの場合まず「生活」の痛みなのだと思います。

そういう切実さがまず先にある。

でもその一方で、生活を守ることだけに閉じてしまうと、暮らしを考える力まで失ってしまう。

たぶん僕が最近ずっと書きたいのは、生活を軽んじようということではまったくなくて、生活を守った先で、暮らしのことも忘れないようにしたい、ということなのだと思います。

AI論争で起きていることも、まったく一緒です。

理想に届かないことへの疲れから、理想そのものを冷笑する。もしくは、摩擦に耐えられないことから、感情そのものをミュートする。どちらも、気持ちはよくわかる。

でもその先で壊れていくのは、単なる理想論ではなく、僕らが自分の倫理観を保つための北極星のほうなのかもしれないなあと。

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繰り返しになってしまいますが、辿り着けないことと、持たなくていいことは、まったく違う。

理想を押しつけないことは優しさだけれど、その優しさを世間に振りまくために、理想までぶち壊してしまうことは、別の話です。

「どうせ無理だから」を理由にして、北極星まで壊してしまわないこと。

それは、自分がどこへ向かいたいのかという尊厳を守るために、同じくらい大事なんじゃないかと思います。

自己の存続のための現実と、自己の尊厳のための理想。その両方を、壊さずに生きていきたい。

あのレイモンド・チャンドラーの名言「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない」と、構造としてはまったく同じです。

たぶん僕がこのWasei Salonという場において守りたいのは、そういう感覚なんだと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。