先日、Wasei Salonの中で、NHK出版から出ている宗教のきほんシリーズ『なぜ「救い」を求めるのか』という本の読書会が開催されました。

「救い」という観点から、人類の宗教史の話が非常にわかりやすく書かれているような内容の本でした。

今日はこの本の読書会を終えて、「救い」と「宗教」の関係性を学んでみたうえで、現代社会に思うことを少し書いてみたいなと思います。

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さて、現代というのは、誰がどう観ても宗教が否定される世の中です。

特に、超越的な存在による「救い」のような非科学的なこと、具体的には「南無阿弥陀仏で救われる」と言ってみても、一般的な世間の中では、バカにされるのがオチです。

それは、人類が宗教の枠組みを離れて世界の事象を何でもかんでも科学で理解し、その論法で反論することができるようになったからですよね。

つまり、「科学」が進歩したことによって、人間は宗教性やスピリチュアルな事柄が全く信じられなくなってしまったわけです。

それは決して悪いことだとは思いません。むしろ、明確に「文明の進歩」と呼べることでもあるかと思います。

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でも、その反作用として、一体何が起きたのか。

超越的な存在に対して「救い」を求めることができなくなり、自分で、自分自身のことを救わなくちゃいけなくなったのだと思います。

つまり、いつもこのブログに書いているような「自己責任論」の世界線が始まったわけですよね。

これは当然の帰結だと思います。超越的な存在がこの世界で否定されてしまった結果、私以外に「救い」を求める具体的な対象(他者から論破されない対象)がなくなってしまったわけですから。

リベラリズムの観点のもと、国家や家族だって解体され縮小化することが求められるなかで、決して身内を、信用できるわけでもない。夫婦間であっても、それは変わらない。

つまり、「自分の機嫌は、自分で取る」というような、今当たり前のように述べられているような生きるためのアドバイスは、まさにそのような科学的な見地から導かれれる合理的な意識のあらわれなのだろうなあとと思います。

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でも、そこには間違いなく「限界」も同時に存在するわけです。

そもそも、自分という生物的な限界がある存在に、自分という生物学的な限界がある人間(つまり私)を救えるわけがない。

自らがまだ若くて心身が健康なうちは、どうにかなるかもしれないですが、年齢を重ねたり、自分が心身を壊したりした時点で、すぐにその「自力救済」は不可能になるわけです。

現代は、自己責任論が当たり前のように振りかざす世の中になってからもうかれこれ5〜10年ぐらい経過するので、実際にそのような「自力救済」の枠組みから溢れた、多くの脱落者を生んでしまった。

わかりやすく僕らの目に映るホームレスのような方々や、自殺してしまった方々だけではなく、引きこもりや、無敵の人など、ありとあらゆる自力救済が不可能となったひとたちが、いまこの世界には多数存在しているのだと思います。

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そして、だからこそ、2023年の現在はそこから転じて「ケアの時代」と叫ばれるのだと思います。

自分で自分を救えない状態に陥ったひとたちを、他者の手によって「救おう」ということですよね。

「お互いにケアしよう」という話が、これほどまでに大きな声で語られるわけです。

もちろん、そこには「セルフケア」という概念も含まれるかと思います。自分の中で、二人の自分を想定して、自分自身が、もう一人の自分(インナーチャイルド)をお世話するように、です。

でも、当然なんですが、そのような「ケア」にも限界があるわけですよね。

人間と人間の1対1のケアであればなんとか保てていたとしても、1対2となり、いつの間にか1対3となり、次第にその数が増えていき、1対nとなれば、必ず人間同士であってもケアしきれない状況が生まれてくる。

ケアできる人たちに、身体や意識がたくさんあるわけじゃないですから。仏教の経典の中に出てくる菩薩たちのように分身したり、時空を超えたりすることはできないわけです。

それは今、学校でも、介護の現場でも、そして超高齢化社会の日本という全体をみても、すべてこのケアしきれない状況に陥り始めている。

そうすると、ケアする側の人々も、次第にケアが必要となる対象と変化してしまうわけです。

これは余談ですが、あの有名な宮沢賢治の「雨ニモマケズ」は、「ケアするひと」でありたいという宮沢賢治自身の祈りのようなものでもあったのだと思います。

農民を中心に、民衆の嘆きを強く理解していた人間だったからこそ、身体性の限界みたいなことを宮沢賢治自身が、自分に対して嘆いたもの、それが「雨ニモマケズ」だったんだろうなあと僕は思います。

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さて、こうやって科学やテクノロジーの力で合理的になればなるほど、人間はドンドンがんじがらめになっている。

それを、マックス・ウェーバーは「鉄の檻」と表現したそうです。

少し本書から引用してみたいと思います。

救済宗教の最も洗練されたかたちとされるプロテスタンティズムが進んでいくと、資本主義が発展し、合理化が進んでいく。すると合理化を進める背後にあった宗教的なものがだんだん失われていき、やがて合理性だけが残る。そうなると、人間は合理性でがんじがらめになった社会環境のなかで、心のよりどころを失って生きていくことになる。これをウェーバーは「鉄の檻」のなかに生きる人間と表現しましたが、この予見に頷く現代人は多いのではないでしょうか。


で、こういうときに、僕らは、必ず「救い」が必要なひとに対して、そのケアを施す人間、つまりいま苦しんでいるひとたちの「隣人」とは誰なんだ?という議論を始めてしまいます。

言い換えると、必ずそのような「べき論」に向かう。親、家族、身内、上司、会社、地域、国家という風にその救うべき人の責任をお互いに押し付け合う。

でも、そうじゃなくて、自らが「隣人になる」という道が本来、僕らにはあるはずなんですよね。

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同じく宗教のきほんシリーズの『愛の思想史』という本の中に、イエス・キリストの「善きサマリア人のたとえ」の話が出てきました。

みなさんもよく知るであろう「善きサマリア人のたとえ」の中で、イエスが質問してきた律法学者に対して何を伝えたかったのか、という話から少し引用してみたいと思います。

イエスが律法学者に逆に質問をするわけです。「あなたは、この三人のうち、強盗に襲われた人に対して、隣人となったのは、誰だと思うか」と。

ここでイエスが、律法学者の投げかけた問いとは決定的に異なる新たな問いを発していることに気づいたでしょうか。イエスは、客観的に「こういう人が隣人です」という定義を求めようとはしていません。定義をすると、それに当てはまらない人は「隣人」ではないと範囲を区切ることになります。そうではなく、「隣人となったのは、誰だと思うか」という問いに変えることで、「 隣人になる」という新しい発想を打ち出しています。この発想の場合、区切りや境界はありません。これまでの境界や、ここまでが仲間かな、という枠組みを超えて、主体的に、新たに出会った人の隣人になっていくことができる。そういう発想を、イエスはこの問いのかたちで打ち出しているのです。


これは地味に本当にすごい問いだと思います。

さて、ここで少し個人的な体験の話を書いてみたい。

先日、レジに行ったら外国人の店員の方が小銭を数えていて、焦っていたからなのか、その瞬間に小銭のケースをひっくり返してしまった。

とても慌てた様子でビクビクしていたので「ゆっくりで大丈夫ですよ」というと、本当に安心した顔に変化していました。

その変化の瞬間に僕自身の中に満たされるものがあったことは言うまでもなく、同時に、ものすごくたくさんの後悔の念にも襲われました。

僕も、このように本当に数限りないひとたちから隣人になってもらっていたんだろうなという発見をしたわけです。

まさに、自らの贈与をおくることで、その送られてきた贈与をたくさん発見したわけです。返すべきものが、その瞬間にたくさん見つかったんですよね。本当に、強い強い後悔の念のようなものに襲われました。

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だからこそ、「隣人とは誰か?」という議論ではなく「隣人になる」という実践をしていきたい。

たとえ、そこに混乱があってもいいじゃないかと思うのです。むしろ、その混乱を受け入れて目一杯混乱をして苦しもう、それが僕らがつくるべきコミュニティの価値だと思います。

そうすると、現代のケアの現場で語られる1対nの問題点がきっと、n対nの関係性に変化していくはずで。

そうすると、ケア自体もきっと崩壊することはなくなるはずです。

むしろ、より盤石になっていく。お互いに小さくケアし合うというだけで、ひとつひとつの力は小さくても、半脆弱性のようなものがそこに立ちあらわれるわけだから。

そのためには「隣人になる」という勇気が、それぞれに持ち合わせることが本当に大事になってくる。

宗教なき時代にそれでも「救い」を求めて、ちゃんと生き抜くための僕らの生存戦略です。

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きっと、いま本当に必要な共同体というのはそのような共同体だと思います。

孟子の「道は近きにあり、しかるにこれを遠きに求む」という話にも非常に近い。

「困っているひとを救う隣人は、誰が担うべきか?」という遠くの議論ばかりをせずに、近くにある道のほうを再発見していこう。べき論ではなく、ただただ自分自身が手を差し伸べるところから始めるしかないのだと思います。

それが一番、結果的に僕らを遠くまで導いてくれる。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。