企業がオウンドメディアや公式SNS、公式You Tubeチャンネルをを通じて発信することは、一体何が理想的なのか、そのような話を最近よく考えます。

この点、どうしても企業側は、自分たちの商品のスペック(具体的な機能や性能)のほうばかり紹介しようとしてしまいがちです。

でも本来、企業やブランド側が行うべきは、世界観(ビジョン、哲学)の宣言であることはもう間違いないはずなんですよね。

ただ、そうは言われても、それでもスペックの方ばかりを解説してしまう理由というのは、きっと、自分たちが日常的に取り組んでいる仕事が「スペックを高めること」が、主な業務となっているひとたちが社内にはほとんどだからだと思うのです。

逆に言うと、世界観をつくりだすということを、社内の広報のような人間でも任されていない(重要だと思われていない)場合が非常に多いということなんでしょうね。

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でも、スペックというのは、もう現代においては、誰でも発信できるようになってきました。

そこというのは、ファンのひとたちに対してドンドンと手渡していかないといけない。むしろそこが、企業やブランドに対しての関わり白や余白として機能していくはずなんです。

だから、スペックは説明しすぎず、あくまで検索できるところにわかりやすく置いておいく程度でいい。それをファンの方々が、動画や音声など別のフォーマットに変換し、ファンからファンへと、説明し届けてもらったほうが間違いなくいいはずです。

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一方で、世界観というのは、絶対にユーザー側から提案できるものではないはずです。

もちろん、ユーザー各人が考えるブランドの世界観というのはそれぞれに存在していて、ありとあらゆるコンテンツの形として、それは表現することはできるのだけれども、それはあくまで一個人の意見や解釈であって、どこまでいっても二次創作にしかなり得ないわけです。

それがブランド全体の世界観として、共通項として全体に波及していくことはない。

世界観、つまりその憲法や聖書に当たる部分というのは、やっぱりある種の「正統性」が必ず必要にってくるはずなんです。

つまり、本家にしか言及することはできないわけですよね。

ただ、多くの企業はこの世界観側の創出に関しても、ユーザー側に任せてしまいがちなところでもあると思います。

この点、Appleや、イーロン・マスク率いるTESLAは本当にそれを上手に行っている企業の代表例だと思います。

彼らが自分たちでスペックを長々と解説するようなコンテンツは、絶対につくらない。あくまでAppleがある暮らし、TESLAがある暮らしという、そのライフスタイルの提案がメインだと思います。

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さて、ここで少し余談になってしまいますが、この本家しか世界観を書き換えることができないという部分が、僕はいつも本当におもしろいなあと思います。

たとえば、日本の歴史の中においても、それまで続いてきた世界観を書き換えたいときほど、毎回「天皇」が担ぎ出されてきたわけです。

これって本当におもしろい現象だなあと、いつも思う。

時の権力者たち(つまり幕府であるアーミー、その時代ごとの軍隊という名の暴力装置)は、世界観を語ることができる人間が、この日本では限られていると、ちゃんと理解しているからなのでしょうね。

だから、過去とはまったく異なる新しい世界観を提案したいときほど、その正統性が必要になるという逆説みたいなものがそこに生じていて、自らがその系譜を継ぐものであるとしないといけない。

そのためにこそ、毎度お決まりのパターンのように、必ず天皇を担ぎ出してくるわけですよね。

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この点に関連して、以前読んだ内田樹さんの『サル化する世界』という中に、論語の孔子の話が書かれたりました。

孔子は、あえて自らをオリジナルとは言わずに、先人たちの祖述であると偽ったという話が書かれてあって、これが、本当に目からウロコが落ちた。

以下で本書から少しだけ引用してみたいと思います。

孔子は「述べて作らず」と宜言した。私が語っている言葉は私の創見ではない。かつて賢者が語った言葉を私は祖述しているに過ぎない。孔子はそう言った。でも、実際には孔子はかなりの部分までは彼のオリジナルな知見を語っていたのだと思う。でも、自分のオリジナルな知見をあえて先人の祖述であると「偽った」。それは、孔子にとって、語られている理説の当否よりも、「私は遅れてやってきた」という言明の方が重要だったからである。彼はどうあっても「祖述者」という立ち位置をとる必要があった。その設定によって、孔子は おのれの起源を創造しようとしたのである。


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とっても面白い話ですよね。

この話だけだと、歴史の話だと堅苦しくて理解し難いかもしれないので、卑近な例で言えば、たとえば以前も少しだけご紹介したことのある、宮崎駿さんと宮崎吾朗さんの関係性は、非常にわかりやすいと思います。

どれだけ、ジブリの熱狂的なファンの方々であっても、またスタジオジブリという企業の中枢にいる方々であっても、「宮崎駿・高畑勲・鈴木敏夫」の創始者であるお三方がつくり出した、その世界観を書き換えることは絶対にできない。

でも唯一、宮崎駿さんの息子・宮崎吾朗さんの場合だけは、彼らがいなくなったあとにおいても、その一声でそれらをすべて書き換えられてしまうわけです。

ここの書き換え可能性を持っているのは、その血筋を引くものだけに限られているんですよね。だからやっぱり、血筋って改めてすごいことだなあと思う。

映画『君たちはどう生きるか』で、大叔父と真人の血筋の話になって、その途端にどこか古めかしく感じてしまって、萎えてしまったという意見を公開直後ちょいちょい見かけましたが、それは血筋の本質がなんたるかを、まったく理解していないのだと思います。

世界観が書き換わるタイミングだからこそ、血筋、その正統性というものが非常に重要になってくるんですよね。

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逆に言えば、なぜ僕ら人間というのは、その血筋にのみよって書き換えが可能だと思えるのかは、本当に不思議で気になるところだし、これからも深掘りしてみたいところ。

きっとこれは、先日ご紹介した東浩紀さんの『訂正可能性の哲学』の中にも出てくる「家族」の概念や、日本が古くから大切にしている「イエ」という概念においても、強く関わってくるような非常に重要な概念だと思います。

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さて話が逸れてしまったので、もとに戻すと、どちらにせよ、ブランド側が作り出し積極的に発信するべきは、徹頭徹尾その「世界観」のほうなんですよね、スペックではなく、です。

一億層発信者社会においては、より一層、その役割分担の意識を持つこと、スペックと世界観の違いに対して自覚的である必要があると思います。

スペックなどの商品紹介は、ファンによって勝手に生成されていくものであって、今後はAIを活用すれば、そのへんの専業主婦でも、簡単に作成できるようになる未来がもう間もなくやってくる。

それをわざわざ、企業が自分たちの手で作ってしまって、社内の無駄なコストやリソースをかけてしまっている状態はあまりにもったいない。

むしろ、ファンの布教活動を行いたいという熱量や願望をその余白ごと減らすきっかけにもなってしまいます。

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また、上手な世界観みたいなものを見つけたらドンドン二次創作の中から登用して取り込んでいくことも同時に重要になってくるのでしょうね。

Appleは、そのあたりも非常にうまいなあと思います。

彼らは、必ずしも拡散力や発信力があるインフルエンサーを起用しているわけではないのは明らかです。

その世界観、つまりAppleの憲法や聖書を理解し、その戒律を遵守している発信者(インフルエンサー)を必ずうまく活用しています。

それが自分たちの世界観の布教活動において、ものすごく重要だと理解しているからなのでしょうね。

これは、本当に文字通り、宗教の布教活動と似ているところがあるんだろうなあと思います。

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世界で、いちばん成功した会社はキリスト教、特にカトリック教会がだといわれますがそれは本当そうなのだと思います。

各地の布教は宣教者に任せていいけれど、その世界観と聖書(バイブル)だけは徹底して守り続けてきた結果なのだろうなあと。

僕らが歴史や宗教から学べるところはまだまだたくさんある。「スペックを語るな、世界観を語れ」とは、そのような意味合いでもあります。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにんとっても、今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなっていたら幸いです。