昨夜、Wasei Salonの中でシリーズ「大AI時代、私たちはどう生きるか?」対話会」の第4回目が開催されました。

https://wasei.salon/events/d4c28edcc753


今日はこのイベントの中でみなさんと対話をしながら、自分なりに気がついたこと、さらにそこから考えてみたことについて、深堀りしながらこのブログに書いてみたいなあと思います。

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まず、過去のAIとのやり取りから実感するのは、AIとは「心地よさ」を与えてくれる存在だということ。

そして、それは、新しい気付きや発見においてもそうだなあと思います。

僕らは、AIが新しい知見や問いを与えてくれる存在だと思っているけれど、使い込めば使い込むほど、勝手に自らにパーソナライズされていて、そのユーザーにおける不快ではない範囲で、「これは発見だ!学びがある!」と思わせてくれる“予定調和的な想定外の驚き”を巧みに提示してくれるようになります。

ユーザー自信は、それを新しい出会いだと思っているけれど、それはAIが適切に調整した「目新しさ」でもあるわけですよね。

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で、結局それっていうのは、単に自分が受け入れやすい「新しさっぽさ」に過ぎないのかもしれない。

本来の想定外の出会いというのは、本当に「未知なもの」であり、時には不快すら伴うような出会いであるはずなんです。

でも、それは今のAIには用意することが許されない。だって、そんなことをしたら当然のように離脱や解約されてしまうから。

逆に言えば、人間の師弟関係やメンターはコレが許されていたのが、AIとの大きな違いなのだと思います。

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で、僕が最近、大阪万博の話を何度もしてしまう理由なんかも、まさにここにあります。

それは、AIの提案を超えた“ノイズとしての出会い”がそこにあったなと思うからなんです。

もちろん、万博も“来場者”というターゲットを想定して設計されてはいます。

けれども、AIのように「個人最適化」された提案ではない。また「日本人」だけに向けられてつくられているわけではない。

もっと広く世界中のユーザーが楽しめるようになっている。だからこそ、自分にとっては意味不明な展示だったり、つまらないもの、不快に感じるものだったりも、同時に大量に混ざっている。

でも、そこが良いと思うのです。

むしろ、そのような“誤配”の中にこそ、新しい出会いや自分の価値観を揺さぶるような体験が眠っている。そしてそれが今、僕らの世界からどんどん失われつつあるもののひとつです。

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あと、もうひとつの問いとして「AIで生産性が向上し、人間の仕事がラクになる」とよく言われますが、果たして本当にそうなのでしょうか。

たしかに、一瞬はラクになる。でも人間は、その状態にもすぐに慣れてしまう。すぐに新しい“当たり前”がやってきて、また新たな不満を抱えるようになる。

実際、最近の僕は、AIに頼れば一瞬で終わるとわかっているタスクでさえも、その頼むことさえも面倒くさいと感じるようになってきました。

そのたびに「いかんいかん」と思うのだけれど、それぐらい平均値は下がってくるし、なおかつ仕事の数だって減っていかない。

あれほど欲した世界が実現したのに、まったく幸福ではない状態に陥るわけです。

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じゃあ、それは一体なぜなのか。

それは、欲望には終わりがないからだと思います。人間の欲望は無限であり、不満足には終わりがない。

これは原始仏教で、ブッダが説いたことなんかとまさに重なります。

この点、一般的には、いま目の前にある苦しみから解放されれば、私は苦から解放されると思われている。

そして、それを開放してくれる輝かしいツールが、インターネットやスマートフォン、そしてAIだったということですよね。だから人間は躍起になってそれを開発しているし、それを使いこなそうともする。

でも、その苦が解放されても、また次の新たな苦が必ずやってくる。

ブッダは、この現象を、この世は諸行無常であり、それゆえにこの世は一切皆苦であるとした。

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一見すると、なぜそこに関連性があるのか意味がわからないかと思います。

でもこれは、あいだに「不満足」を含めるとわかりやすい。

無常なるものは必ず「苦」である。なぜなら、苦というのは「不満足に終わりがない」という状態だから。

つまり、いまを耐えて「生産性」を向上させれば、将来は楽になるというのは真っ赤な嘘であり、そのときにはまた新しい「当たりまえ」がやってきていて、その中でより良い状態を目指し続けて「不満足」に苦しむ。

で、さらに悲惨なことは、AIの登場によってそんな諸行無常のスピード、盛者必衰のサイクルも早まり、同時にAIによって個人の可能性はドンドンと無限大に広がるからこそ、余計に不満足、その満たされなさ同時に加速していく。

一度受け入れた自分のなかの「諦め」も「これは諦めなくても良かったのかもしれない…」と思い始めるわけですからね。

心理学者・岸田秀さんが語るような「過去への後悔を、それを未来に逆投影すること」、その可能性、つまり投影するスクリーンのサイズだけが、大きくなる時代に僕らは生きているわけです。

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そんなふうに、AIは「できるかもしれない世界」を無限に提示し続ける。それは「諦めの効かない世界」であり「満たされなさ」の無限ループでもある。

人間は、目前の苦労を指さしながら「これさえ報われれば…!」と思ってあたらしい技術に飛びつくんだけれど、それを追い求める気持ちこそが、実は「苦」の根本原因であるということでもあるわけです。

でも、現代に生きてしまっている以上、AIを使わずにはいられない。

AI追わないということ現代人としては、ほぼほぼありえない。だとすると、現代人が一番苦しんでいるんではないか。

これは、ものすごくシニカルなパラドックスだなあと思います。

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では、そんなAI時代において、どうすれば“本当の意味での創造”や“納得”にたどり着けるのか?

僕が感じているのは、「AIとは関係なく、自分が価値があると思えることに淡々と取り組み続けられるかどうか」だと思います。

もちろん、全振りするわけではなくて、AIで極限までなめらかにする部分もあれば、同時に世界との摩擦を楽しむ部分も確保するということ。

そして、そのひとつのカギは「文化的コードの逸脱」にあるんだろうなあと思っています。

AIだとただのエラーだと判断されるようなクリエイティブでさえも、人間だったらその文化的コードの逸脱が、ひとつの表現や作品になる。

たとえば、デュシャンの「泉」とかはわかりやすい。あれをAIが提案しても、ただのエラーです。

でも、人間だったら、そのエラー(逸脱)にこそ意味が宿る可能性があり、パラダイムシフトを生む可能性があるわけですよね。

それは創作している人間の「身体性」が根拠となる。

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とはいえ「AIからの提案をただ鵜呑みにして、手当たり次第に提案しているだけじゃないか!」という批判なんかもあり得ると思います。

そして、実際に、そういうものはこれからたくさん出てくるはずです。もういくらでも、クリエイティブ自体は無限に生産できてしまうから。

じゃあ、僕らはそれをどうやって見分ていくようになるのか。

それは「僕らは何に文化的コードの逸脱を感じ取るのだろうか?」という問いと同義だと思います。

ひとつわかりやすいのは、徹底したアノニマスに振り切ること。

「秘すれば花なり」というように、とにかく身元を隠す。でもそこに偽らざる人間の影が存在することをほのめかす。その受け手側の想像力を掻き立てること。人々の野次馬根性をマーケティング手法で刺激すること。

最近の国内外の顔を隠したアーティストたちの存在は、それをわかりやすく象徴していると思います。

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もうひとつは、そのひと個人への信頼。こちらのほうがより一層重要になってくるんだろうなと思います。

実際に、そのクリエイティブ自体に、本人の体重が乗っかっているか。

それは、五感を含めた身体性の担保であり、つまりは身体発の習慣の担保があるかどうかだと思っています。

昨日の対話会で出た例で言えば、iPadに直接書き込めば、すべてが情報処理がなされて扱いやすくなるのに「それでも、紙に書こうとする」とか、AIが提案する合理的なトレーニング方法があるのに「それでも、生身の身体だけで屋外を走りたい」とか。

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つまり、より「ラク」や「タイパ・コスパ」良いものがあるとわかったうえでのなお、「それでも、自分はこちらを選び取る」という感覚、その能動的な選択を選び、体重が乗っかっているかどうか。

そして周囲も、それを賛同してくれるものになるためにはきっと、習慣の力が必要で。

「あのひとは毎日走っているもんね」というように。「あの人は本当に花が大好きで、毎日慈しむように世話をしながら水をあげているもんね」というように。

その時に深い共鳴が訪れる。口で言っているだけではなく、日々実行をしている、その習慣を大切にしているかどうかが、実践から伝わってくる。

そのときに周囲の人々も込みで「あー、確かにそれは大切なことだ」と思えるような、表現やクリエイティブ、アートの領域が立ちあらわれるのだろうなあと思います。

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まとめると、AIが論理や原理で突き詰める答えに対して、そこからのあえての逸脱、それが人間らしさであり、人間の持つ本当の強さであり弱さでもある。

そのときに唯一「不満足が終わらない」ことによる「苦」からの解放がなされて、本当の意味で心が満たされる瞬間がやってくる。

そのことに取り組んだ結果として、ポジティブなこともネガティブなことも、どちらが起こっても、ありのままに受け入れられるような自分に変化していくる。

僕も、先日もブログに書いた「それでも贈与で巡るコミュニティを探求したい」という話なんかもまさにここにつながります。


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そのような状態に到達したときに初めて、執着してしまう自己から解放されて(つまり諸法無我を理解し)、「もののあわれ」や「一期一会」を本当の意味で大事にすることができるようになるんだろうなあと。(そこに「涅槃寂静」が訪れる。)

今は、そんなことを漠然と考えています。

これからも、みなさんと一緒に果敢にAIに触りながら、そこで得られたそれぞれの身体知を持ち寄って、深く対話をしながら、AI時代にどう生きるかを考えていきたい。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。