ずっと、不思議だなあと思っていたことがあります。
それは、奈良の大仏(東大寺盧舎那仏像)を見に行くたびに、なぜこんなに大きなものを、752年の日本で建てられたのだろうか、と。
一方で、2022年の東京にいると六本木ヒルズのビルが建てられる理由はよくわかる。
人間の欲望が渦巻いて、そこに資本主義という加速装置が組み合わされば、これほど巨大な建造物であっても、いとも簡単に建ててしまうだろうなあと素直に思えます。
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そんな中、最近自分自身でNFTやDAOに触れていてよく思うのは、この熱量の延長線上であれば、奈良の大仏は建立されるのだろうなあと思うようになってきたのです。
つまり、少しだけ奈良時代の人々の気持ちや、そのときにこの国を治めていた聖武天皇の気持ちが理解できるようになってきた。
今日は一風変わった、そんなお話を少しだけ書いてみたいと思います。
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なぜ、聖武天皇は「奈良の大仏」をつくったのか。
それは当時流行していた「疫病や飢饉をおさめるため」だというのが、一般的な解釈です。
しかし、それだけではないのかもしれません。
具体的には疫病や飢饉が蔓延する当時の世の中で、「どんな人も何かを差し出して参与し得る場」をつくることが聖武天皇の目的だったのではないか、と。
このことに気づかせてくれたのは、政治学者・中島岳志さんと批評家・若松英輔さんの対談本である『いのちの政治学』という本の中に書かれていた内容です。
この本の中に「奈良の大仏」をつくった聖武天皇について、おふたりが語っている章があります。
これは非常に重要な指摘だなあと感じました。以下で聖武天皇の詔の現代語訳と、おふたりの対話部分を引用してみます。
中島 大仏建立にあたって、民に「これをやれ」と苦役を強いることがあってはならない。あくまでも「知識」、自律性によってこそなされるべきであるといっているわけです。そして、一枝の草や一握りの土でもいい、問題は量ではない、どんな少しのものでも捧げてくれるのであれば一緒にやろう、といっている。これは、まさに「危機の時代の演説」だと思います。
若松 あらゆる人が、自分のもっている何かを差し出し得る世界ということですよね。差し出すのは「何ものか」でよい。金銭や労働でなくてもよいわけです。祈りでも、心からの賛意でもよい。とても大事な感覚だと思います。(太字引用者)
【聖武天皇の詔 現代語訳】この富と権勢をもってこの尊像を造るのは、ことは成りやすいが、その願いを成就することは難しい。ただ徒らに人々を苦労させることがあっては、この仕事の神聖な意義を感じることができなくなり、あるいはそしりを生じて、却って罪におちいることを恐れる。したがってこの事業に参加する者は心からなる至誠をもって、それぞれが大きな福を招くように、毎日三度盧遮那仏を拝し、自らがその思いをもって、それぞれ盧舎那仏造営に従うようにせよ。もし更に一枝の草や一握りの土のような僅かなものでも捧げて、この造仏の仕事に協力したいと願う者があれば、欲するままにこれを許そう。国・郡などの役人はこの造仏のために、人民のくらしを侵しみだしたり、無理に物資を取り立てたりすることがあってはならぬ。国内の遠近にかかわらず、あまねくこの詔を布告して、朕の意向を知らしめよ。
いかがでしょうか。NFTやDAOにすでに触れている方は、なんだかちょっと現在の状況と似ているなあと感じてきませんか。
現代社会では「どれだけ多額のお金が寄付できたのか」とか「どれだけの影響力を持って他者に伝播できたのか」など、とにかくすべてが「数の論理」で語られてしまいがち。
それだけが、世間の評価軸となってしまっているがゆえに、価値のあるものを提供できる人が尊くて、そうじゃない人は卑しいひとであるという完全に誤った認識が生まれてしまっているような感じがします。
「自分の些細な募金や、少数のフォロワーに対しての伝播なんかはたかが知れていて、あの有名人に比べれば何の価値もないのだ」と。
だからこそ、複数人で何かを話すときも、自然と声が大きくて言語化が上手な影響力があるひとに、その発言権を譲ってしまうような状況も生まれてしまうのでしょう。
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でも一方で、話すひとは、その話を聞いてくれるひとがいるから、その場は成立しているわけですよね。
誰もいないところでは、どれだけ声の大きなひとが有益なことを語ってみても、なんの価値もない。
であれば、やはりそれを聞くひとも、自らの差し出せるものをしっかりと差し出して、その結果としての場が創造されているわけです。
本来、そこに大小や優劣なんかは一切存在せず、すべては対等であるはずなのです。
ここまでのお話は、今朝配信したVoicy内でも丁寧にご説明したとおりです。
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聖武天皇は、当時の階級社会が固定化している日本という国の中で、「本当の道理」を改めて万人に伝えるために、大仏建立という誰にでも目に見えるわかりやすい形の一大事業として、そんな場を顕現(実現)させようとしたのではないでしょうか。
であれば、きっと現代におけるweb3の文脈、特に日本国内におけるNFTやDAOの動きなんかはまさに、この聖武天皇がやろうとしていたことに非常によく似ているなあと、僕なんかは思うのです。
具体的には、メンバーそれぞれが主体的になって、各々が提供できるものをその都度持ち合いながら、各人が強い意志を持って「文化」をつくりだそうとしていて、その結果として、これまでにはなかった「正直者が得をするような社会」が少しずつ生まれ始めてきています。
参照:それでも、正直者が得をする社会へ。
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このような世界観を、いまの社会の中で取り戻していくことが、本当にとても大事なことなのだと思います。
きっと、人々の祈りや祈願のようなものを顕現させるためには、「実用性」だけではダメなんでしょうね。
六本木ヒルズは、より資本主義を加速させてはくれるけれど「共同体」は絶対に生み出さない。
この点、日本ってずっと「天皇型」と「将軍型」の2つの統治の形が行ったり来たりしている国なのだと思います。
長年続いた安倍政権は、間違いなく将軍型の統治だった。
でも、今求められているのは、天皇型の統治のほうであって、まさに上述したような「どんな人も何かを差し出して参与し得る場」をつくり出すチカラであり、コトバだと思います。
ここまでサラッと読んで誤読されると、かなり危うい意見を書いていると思われることは、重々自覚しています。
しかし、日本人とNFTやDAOの相性が良いというのは、このような側面もあるのではないでしょうか。
奈良時代から変わっていない日本人の価値感、そしてその先にある奈良の大仏建立。
「共に助け合って生きていこう」という願いを込めて、その祈願を表明する手段として、奈良の大仏は建てられたはずです。
当時の時代背景と、今の時代背景は驚くほどほんとうによく似ています。
気になる方はぜひ、聖武天皇や奈良の大仏の建立背景についてご自身で調べてみてください。とっても興味深くて非常におもしろいですよ。
今日のお話がいつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても何かしらの参考となったら幸いです。
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