本当に自分がやりたい仕事にたどり着くためには、「自分がやりたいこと」よりも「自分が本当にやりたくないこと」のほうを正直に紙に書き出す必要がある。

この話は、本当に聞き飽きるほど、世間で広く語られているような類い話だと思います。

そして、そこで書き出された「自分のとって嫌なこと」をひとつひとつやめていくためにはどうすれば良いのか?を真剣に考えてみることがめちゃくちゃ重要だと。

あまりにもそこら中で語り尽くされてしまっていることですが、これは改めて本当に大事なことだと僕も思います。

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一方で、この苦手なことを書き出すことに対して、何か強い心理的なハードルがあるように(客観的に見える)ひとたちも、一定数存在しているなあと。

で、このことが個人的にはずっと不思議だったんだけれども、たぶんここには心理的なブロックが発生しているんだろうなあと思います。

さて、ここからが今日の本題です。

具体的には、そのことを生業にしているひとたちがいる中で、「他者の仕事を貶したくない、傷つけたくない」そんなある種の「優しさ」みたいなメンタルブロックが働いているんだろうなあと。

それが、自分が心底嫌いな、もっと言うと半分は憎んでいるような仕事を正直に書き出すことを、躊躇させてしまうわけですよね。

でも僕は、むしろ逆に自分が嫌いな仕事や、やりたくない事柄を正直に書き出すことこそが、その仕事をしている他者に対してしっかりと敬意と配慮ができるようになっていくのだと思っています。

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じゃあ、それは一体どういうことか。

たとえば、僕は事務作業が本当に死ぬほど嫌いで、必要な書類を揃えるというような作業は罰ゲームみたいな感覚があります。

でも、世界にはこの事務作業が好きなひとたち、もしくはそのことに対して何も感じていない人たち(←ここ意外と大事)がたくさんいる。

そして、そのひとたちは、むしろ何の苦痛もなく、それらを行っているわけですよね。

だったら、そのひとたちに素直にお願いすればいい。そのための分業の観念がものすごく大事だと思うのです。

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実際このWasei Salonにおいても、たとえばエクセル管理などは運営チームの若月さんが担ってくれていて、毎月死ぬほど助かっています。

だから僕は、若月さんに頭があがらないですし、同じ運営チームメンバーとして強く尊敬し、敬意を持っている。

これを僕が、それを生業にしているひとがいるのだから、自分がそれを地獄のように嫌いと言うのは、その人たちの仕事を貶しているようで失礼だと思ってしまうと、果たしてどうなるでしょうか。

無理やり自分で苦手なことをやろうとしてみたり、他人に委託しないで抱え込んでしまったりして、ひどく苦痛を抱えることになる。そして余計に、その作業を憎むことになるわけです。

そうなっていくことのほうが、ある種差別的と言うか、余計に憎悪をふくらませることにつながると思うのです。

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何かひとつのプロジェクトを進行していくなかで、お互いの苦手をハッキリと理解し合い、他者と協力していく道筋を考えることはめちゃくちゃ重要なことだと思います。

本当に「やりたくないこと」を正直にすべて書き出す作業と、それに自らが関わらずに済む方法を真摯に考えることは、そのような意味でも、誰にとっても非常に重要なこと。

決して無理やり他人に押し付けるのではなく、です。

それを押し付けることが悪だと思い込んでいることのほうが、職業に貴賤があると思っている心のあらわれでもあるのだから。

このような考え方というのは、僕がもっともっと若い頃から早く気づきたかったことのひとつでもあります。

どうしても自分を中心に世界を眺めてしまっていると、自分が苦手なことを他人に押し付けることは、何か人を騙しているような感覚になってしまう。

でもそれこそが、自己中心的な見方であることを改めて再認識したいなあと思います。

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さて、ここで話は少し変わるのですが、今日の話に関連して「◯◯からだけは、逃げちゃいけない」っていう話を仕事の中でよく耳にする機会は多いです。

たとえば「数字に関することから逃げちゃいけない、稼ぐことから逃げちゃいけない、人とのコミュニケーションから逃げちゃいけない、嫌われることから逃げちゃいけない」などなど。

ただ、こちらの主張に関しても、多くの場合は嘘だよなあと僕は思っています。

僕は、この世において逃げちゃいけないものなんて何一つないと思っていて、たとえどんな事柄であっても、自分が本当に嫌だと思うのなら、何だって逃げてもいいと思います。

蓼食う虫も好き好きという話なんです、本当に。

にも関わらず、何かひとつのスタイルでしかないようなことを、世界の真理のように仰々しく主張する人がひとたちがいるからこそ、その態度に苛立ちを感じて、その真逆の思想を大声で語るひとたちも同時に出てくるわけですよね。

そして、そのような両方からの大きな声の主張を受けて、観ている観客は一体真実はどっちなんだ!?と迷い続けるわけです。

両方が同程度に確からしいと感じてしまうから。

そして、その迷いがそのまま書籍の売上や動画の再生数なんかにも直結していく。つまり、発信者側からすると、大きな声で言い争えば争うほど、自分たちにとって都合の良い状態にもなるわけです。だから声がドンドン大きくなるのも必定です。

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さて、ただそれでもたったひとつだけ、僕ができればこれだけは逃げちゃダメだなあと思うものがあり、それが「読書」なんですよね。

読書からは決して逃げちゃいけないって思います。(もちろん、これも僕のいち個人の意見ではありますが。)

ありとあらゆる生き方、大企業の創業者から一日に一円も使わない禅僧に至るまで、どのような立場にいる方々であっても、自らに考えに考え抜いて、自分の人生を選び取って生きている人々は、僕が見る限り、みなさんすべからく読書をしている。

しかも、ひとつのジャンルに絞らず、多様なジャンルの読書に努めている。

それは本当に、どのような立場にいるひとであっても一貫して変わらない姿だなあと思います。

これはもっと突き詰めて語ると「先人たちの生き様から必死に学ぼうとする姿勢」を必ず持ち合わせているなあということです。

それは決して、目で文字を追うだけの読書に限らない。耳学問であっても、そのうちに入るかと思います。

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あとは、更にそこに付随して、読書から得られた学びから自然に立ちあらわれてくる自分の意見や感覚みたいなものを、何かしらの方法で必ず表現してみること。

これに関しても、いま僕がこうやって書いているような言語を使った文章に限らず、声による意見表明でも、アートや音楽、そしてスポーツなどでもいいですし、もっと抽象的にコミュニティや共同体、会社組織などによる表現でも本当に何でも良いと思います。

ただ、とにかく「他者から学び、それを表現し続けること」は、万人においてとっても大事なことなんだろうなあと思います。

もしも、逃げちゃいけないことがこの世にあるのなら、僕はこの部分だと思っています。

そこから逃げて諦めた人たちは、早々に他人の奴隷や言い成りに成り下がってしまう。

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最後にまとめると、「本当に自分がやりたくないこと」を書き出して、そのために先人たちの知恵や生き様から学び、そこで得られた学びを実践し続けて、次なる問いを生み出していく。

その連鎖を経た過程の先にこそ、本当に自分がたどり着きたかった「確かな場所」につながっていくんだろうなあと。

それができるひとは、社会的な「成功」を獲得をしようがしまいが、必ず「心穏で豊かな人生」をおくることができているのだろうなあと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。