最近、河合隼雄さんの『おはなしの知恵』という本を読み始めました。

この本、冒頭からすごくおもしろい。

ここで取り上げられている「おはなし」とはいわゆる「寓話」の類いで、僕自身なぜか寓話が好きでして、このブログの中でも喩え話として頻繁に用いています。

たとえば、「北風と太陽」や「金の斧、銀の斧」、昨日もご紹介した禅の公案なんかもそのひとつかもしれません。

もちろん、仏教やキリスト教の経典の中に含まれている物語も、ひろく「おはなし」に含まれてくるかと思います。(善きサマリア人のたとえ、とか)

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で、この本読みながら早速膝を打つような表現が語られていたので、今日は本書を読み終えるまえから、その部分を少しだけご紹介してみたいと思います。

それがどんなお内容かと言えば、「おはなし」に正誤はなく、どれが好きかの問題であるという内容です。

以下でさっそく本書から少し引用してみたいと思います。

私が今考えている立場は次のようなことである。「おはなし」に正誤はない。要はどれが 好きかの問題である。私は『古事記』のはなしが好きであるとか、場合によっては、 好きな 話をつくるのもいい。それは「私」が好きだという意味で、「私」に深く関連する。しかし、好きなものは他人に押しつけられない。他人は他人で好きなものがあることを否定できない。人間のいいところは、好みを共有しなくとも仲良くできることである。仲良くするためには、好みは共有できないにしても、相手は何を好きかを知り、それを理解しようと努めなければならない。そしてわれわれの日常生活は、自分で気づいているよりはるかに多くの「おはなし」によって支えられている。そのことを認識することが「はなしのはじまり」である。


なんだかとても当たりまえのようなことを言っているように感じられるかもしれないですが、とてつもなく深いことを僕らに教えてくれているなあと思います。

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たとえば、私の「おはなし」の基準から、相手の「おはなし」の意味を理解しようとする姿勢。

それは一見すると、相手のスタンスを理解しようとしているように思えて、実はより一層、対立構造は深まるばかり。

これは、たとえば聖書の視点から「古事記」を読もうとしているようなことを考えたら、すぐにわかることだと思います。もちろん、その逆でも構いません(つまり古事記の視点から聖書を読んでみたとき)。

どう考えても、相手の物語が矛盾だらけに感じてきて、批判したくなるのも当然のことだと思います。

でも、僕らがいま広くインターネット社会の中では、毎日これをやってしまっている。それが本当に馬鹿げた話だなあと思うのです。

具体的には、ユートピアの世界から現実世界を眺めたり、現実世界からユートピアを眺めたり。または、フェミニズムの視点から男性社会を眺めたり、男性社会からフェミニズムを眺めたり。

以前もご紹介した映画『バービー』は、このお互いの愚かさのようなものを、本当にうまく表現していたなあと思います。あの映画は単に男性中心社会を批判しているというよりも、お互いの盲点みたいなものを、しっかりと指摘し合っていて、それゆえに男性目線でも女性目線でも、どちらからでも楽しめる映画となっていたのだと思います。

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きっと、ここで一番大事なことは、一度自分の好きな「おはなし」の観点から離れること。

判断基準を自分の「おはなし」のなかの良し悪しの基準や、幸福や不幸の基準と紐付けないこと。もちろん、成功や失敗の価値観においてもそうです。

人間は、何かしらの視点を置かないと物事や客観的な事象を眺められない以上、そんなことは原理的には不可能ですが、でも、不可能なのだけれども、不可能がゆえにそれをしようと心がけることが本当に大事なのだろうなと。

つまり、本当に大事なことは、自らの前提を相手の「おはなし」としっかりと交換をして、相手の「おはなし」の立場から自己を眺められることになることなんだろうなあと。

言い換えると、相手のおはなしの設定の中で、自分の物語を再解釈し直したときに、相手からどう見えているのかを理解しようと努めること。

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これはどちらも同じように、相手の「おはなし」を理解しようとしている態度に思えるかもしれないけれども、両者は完全に似て非なるものです。まったくその帰結が異なります。

ここが今日本当に強く強調したいポイント。

そうやって、お互いに相手の「おはなし」の視座に意識を向ければ、まったく違うものが見えてくるはず。

もちろん、倫理や政治、社会の文脈だけでなく、ビジネスの文脈においても非常に役に立つ考え方だと感じます。そして、きっと寛容さや多様性の本質というのも、むしろここにあると思うんですよね。

自分のおはなしから軸足を移すことなく、世界各国のおはなしを理解しようとしたら、それこそ世界中が戦争状態になるのも当然のことです。

こんなにも私の「常識」や「正義」と異なる人間が存在するのか、けしからん!ってなるわけですから。それが自分の中で確固たる譲れない思想信条(宗教や文化)であればあるほど、そしてそれが踏みにじられていればいるほど、なおのことだと思います。

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しかし、現代人は、そうやって他人の「おはなし」の中にある「知識」を集めることが「多様性」だと誤解してしまっている。

でも、そうじゃないんです。それだと異業種交流会の名刺集めと何ら変わらない。

もちろん、自分の中に、いちばん好きなおはなしがあるのは当然で、それはそれで構いません。

問題は、その常識によって、他者や世界、つまり自分が好まない「おはなし」を否定しないこと、まずは互いに認め合うところから。

河合隼雄さんのおっしゃる「人間のいいところは、好みを共有しなくとも仲良くできること」というのは、本当にそのとおりだと感じます。

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このように考えてくると、相手のおはなしと自分のおはなしがバッティングしても、何も問題ないことが、本当の意味で理解できてくるはず。

それは、「世界のはじまり」のような絶対に相容れない観念であってもそうです。

世界の創世記の物語も一つである必要はまったくない。

この点に関連して河合隼雄さんは、本書の中で以下のようにも語ります。

同じ「世界のはじまり」についてのおはなしでも、日本や中国などとキリスト教文化圏とでは、こんなにも異なっている。われわれはその差を実感することが必要である。日本と欧米との間に生じる多くの摩擦や誤解の根元は、ここにある、と言っていいかも知れぬほどである。片方は言う、世界を神がつくったなどと言っても、それじゃその神を誰がつくったのかと。これに対して、他の方では、何もかも自然にできあがってくると言っても、それは誰の意思、誰の意図によってできあがってくるのか、と言う。おそらくこの議論は果てしなく続くであろう。結局は、相手を「話のわからん 奴」と思うところで終るのではなかろうか。


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「世界のはじまり」についても、科学の進歩によって、いつかは「客観的な正解」に到達する日がやってくるかもしれない。

もっと厳密にいうと、人間の認識できる範囲での「万人が共通でそれが正しい(らしい)」と信じる根拠が発見される日はいつか必ず来ると思います。

でも、たぶん僕たちが生きているあいだには無理でしょう。つまりこの点においても「おはなし」が並行することは、しばらくは避けられない。

だから、相手の好きなおはなしを、ちゃんと認識する。

相手を非科学的だと論破するのではなく、そもそも科学で万人に証明できる範囲内なんて、本当に数限られている範囲にすぎないのだから、そのことに常に自覚的でありたい。僕らに今求められているスタンスはこちらだと思います。

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そして、そのためには、相手が観ている世界の「素材」が必要になってくる。

また、自分から見えている世界の「素材」も相手に対して開示しないければいけない。

そうしないと、お互いの「おはなし」の視座を交換することができません。

このときに、相手の提示してきたものに対して、早合点しないことが本当に大事だなと。

言い換えると、そのように、お互いの好きな「おはなし」を提示し合って、互いの基準を見せあっているような場において、ひとりでも、自分の物語からしか世界を眺められない幼稚で幼い人がいると、そこですぐに戦争が始まってしまう。

だから、決して早合点しないこと。

そんな問い続ける姿勢を持ち続けている人たちが集まっている場が今本当に必要で、Wasei Salonは、そのための場をつくっている感覚も強くあります。

もちろん、とはいえ、唐突に全然違う設定の「おはなし」が語られても、それはそれで両者が心を閉ざしてしまう可能性が高いので、少しずつ少しずつ、両者が相手を脅かさない程度に、共有していくことが大事なんだろうなあと。

読み手に対しての最大限の敬意と配慮を持って。

そのような空間においては、さまざまなタイプのおはなしが語られていることが理想的だと思います。

各人が好きなおはなしに、優劣なんて最初から存在しないのだということを真の意味で体得していくこと。その前提を共有していることが、とっても大事なことだなあと。

それが「はなしのはじまり」であり、人々が自己の信念や背景を超えて、他者の「おはなし」を真に理解し始める瞬間になるんだと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。