「こんな時代に本なんて読んでも仕方ない。それよりも、まずは行動して、世界を変えなければいけないんだ。」

よく耳にする読書に対しての批判です。でも果たして、本当にそうなのでしょうか。

僕は、その意見には、いつも強い疑問を感じます。

むしろ、僕らにとっていま必要なことは、そんな「社会の不完全さ」というものを、まずは引き受けることにあるのではないのかなと。

今日は、一風変わったそんなお話です。

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この点、「どうして世界はこうなっているのか」その仕組みや構造をまずはちゃんと知ろうとすることから始めるしか、本当に意味で世界とは対峙できないと思っています。

むしろ、世間の多くのひとはそれを知らないからこそ、むやみやたらと世界、言い換えると「広義の他者」と常に戦ってしまうわけですよね。

そんなふうに、社会の不完全さや理不尽さに対して言及し、憤慨してしまう。

でも、本当に必要なことは、そんな社会の不完全さを自らの責任として引き受けられるようになることだと思うのです。

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この点、以前もご紹介したことがある橋爪大三郎さんの『正しい本の読み方』の中に、とても腑に落ちる表現が書かれてあったので、以下で少し引用してみたいと思います。

    この世界の不完全さを、学問は取り払うことができない。     
    でも、本で学ぶことで、この世界が不完全であることと、その理由を理解することができます。     
    まず、民主主義ならすべてうまくいく、と思わないほうがいい。民主主義のよいところは、独裁でないという点だけです。決定の質が、独裁よりましなわけではない。でもそれが、自分の下した決定だからと、結果を引き受けることができるのです。     
    独裁国家だったら、不条理な世界を生きている感覚に苦しめられる。どんな悪い結果もみんな独裁者のせいにし、恨みながら一生を送ることになるでしょう。民主主義なら、どんな悪い結果も、自分のせいです。その責任をとりながら、誇りある一生を送ることができる。     
    これは大きな違いです。自分の考えや行動と、世界とがつながっているという感覚をもつことができるから。


いかがでしょうか。これはいまとっても大事な視点だと思います。

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そして、この構図というのは「世界と私」という関係性だけではなくて、私自身、つまり「私と私」の関係性においても、まったく同じことが言えるかと思います。

人間の苦悩、具体的には「生老病死」の苦悩を理解することによって、自己の不完全さをちゃんと引き受けられるようになるということでもあるのだと思います。

この点、橋爪さんは「インフォームド・コンセント」の事例を用いながら説明してくれています。

さらに、本書から引用してみたいと思います。

病気になったら、医師の説明を受け、同意しながら治療を進める、インフォームド・コンセントという考え方があります。病気とともに生きている、自分がその主人公であるという誇りを大事にする。社会も、さまざまな不都合(病気のようなもの) を抱えています。それに悩み苦しみながらも、自分がその主人公であると考えられることが大事です。      
    本を読むとは、社会のさまざまな不都合を、医師のように診断し、処方箋を書く力をつけることです。自分の人生の、誇りある主人公になることです。


似たようなお話は、以前『取り組む頻度を周囲と比較しているうちは、本当に好きなことではない。』というVoicyの配信回の中でもお話したことがあるので、ぜひ合わせて聴いてみてください。


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このように、世界の仕組みや構造をまずは理解しないと、常になんでもかんでも、私や弱者を攻撃してくる世界のせいにしてしまう。

そして、そんな自分や弱者を追い込んでくる世界というものを、なんとか自分の思い通りに変えなければいけないと強く思い込んでしまう。

つまり、誤った正義感を持ってしまうわけですよね。

でも繰り返しますが、そこにこそ「苦悩」が生まれるわけです。

以前何かの書籍で読んで、思わずメモしてしまった批評家・若松英輔さんの言葉に「生きるとは、願うように世界をつくりかえることではなく、むしろ、世界からの語りかけに耳を傾けることだというのである。」というのがあります。

この言葉も、全く同じことを僕らに教えてくれていると思うのですよね。

常にその責任を引き受けるのは自分自身なんです。

それを、他人のせいにしてしまう愚かさに対して、はやく僕らは自覚的にならなければいけない。

それは、いつどんな瞬間だって、自分の世界認識の甘さから来ているだけなのですから。

そんな世界を見定める自分の目が甘いからこそ、世間からはしごを外されたような気分になってしまうんですよね。

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たとえば、現代を生きる僕らは「戦時中は独裁者に騙されていた!」という当時の国民の言葉に、何の同情心のようなものも抱きません。

なぜなら、未来の視点から多くが明らかになった状態で、当時の状況を眺めることができているからです。

結局は、メディアに踊らされただけの愚かな人たちだと、当時の人々を観ながら誰もが思えるからこそ、そうやってすべてを独裁者のせいにしようとするひとたちを客観的に観察するように眺めながら安易な同情をすることなく、批判的に語ることができるわけですよね。

でも、彼ら彼女らも、今の僕らと全く同じような存在であり、今の僕らと全く同じように、国や世間に対してひたすら文句を言い続けていたのだと思うのです。

そんな同じ過ちを絶対に繰り返してはいけない。

むしろ、そうやって世界の不完全さの責任を引き受けれられるような大人が、ひとりずつでも増えていかなければいけない。そんな成熟した態度がいま強く求められているのでしょう。

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そういえば以前、劇作家・鴻上尚史さんがラジオに出ていたときに、とってもいい言葉を語られていました。

現代を生きる僕らは「中途半端に壊れてしまっている世間というものを、理解しなければいけないのだ」と。

そのときに話されていた具体例は、最近話題になった「都会風を吹かせるな」という福井県の町が掲げた例のあのお話です。

なぜあのような事例が起こるのか、日本人と世間の関係性を考えると、手にとるように見えてくると鴻上さんはおっしゃっていました。

「あとは、ソレをどうするのかは自分自身である」と。

清濁併せ呑むようなつもりでその場に乗り込んでいくのも、それを拒み続けてその場を離れると決意するのも、自分次第。

でもどちらにせよ「まずは敵を知れ、話はそれからだ」ということなのでしょうね。

それは、世界や日本の世間というもののの構造を理解しないかぎりは、本当にどうしようもない。

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これは、「中途半端に壊れかけている世間」という時代に生きている僕らに課せられた責務でもあると思います。

それだけを聞くと、なんだか辛く悲しいようにも思えてくるけれど、だからこそ本当に欲しい世間に塗り変えていくこともできるはずだと思います。

だって、それはもう完全に壊れかけているのだから。

もしこの世間というものが、盤石な時代に生まれてしまったら、庶民の僕らには、本当にどうすることもできなかったはずです。そう考えると、ものすごく幸運な時代に生まれたと思います。

だからこそ、僕らひとりひとりの意識、その一挙手一投足にかかっている。成熟した大人がこの世界に着実増えていくかどうかにそれはかかっている。

だからこそ、世界や世間を学ぼう、そのために本を読もう。そして、他者と対話し、問い続けよう。今の僕は強くそう思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。