最近話題のロビン・ダンバーが書いた『宗教の起源』という本を僕も読み終えました。
苫野一徳さんもここ数日Voicyで2回ほど紹介されていて、その解説がとても興味深かったです。
本の詳細については、ぜひ苫野さんの配信を聴いていただきたいのですが、簡単に要約すると、宗教は遠隔グルーミングから発展し、強烈な没入感をともなうトランス状態を生みだすエンドルフィンの働きを作り出すために生み出されたという説が、展開されています。
さらに、150人程度の集団という「ダンバー数」を超えて、何万、何十万単位で人々を統率するために宗教が発展していったと。
僕自身、この本を読み通して、確かにその説明にはとても説得力があると感じました。
しかし同時に、何かが足りない、何かが圧倒的に欠けているとも感じたのです。
それは、恐らくすべてを「脳」の現象で解決しようとしていることに、起因するからなのだと思います。宗教や信仰の問題は、脳だけの問題ではないことは明らかだと感じます。
むしろ、『宗教の起源』を読んで僕が理解したのは、「宗教の起源なんてものは、実際にはまったくもってわからないんだ」ということなんですよね。
ーーー
そのうえで、こと現代人に対しての説明しやすい方法は、脳や科学からのアプローチなのだということも、同時に非常によく理解できました。
でも、これは本当に十分な説明と言えるのかといえば、きっとそうじゃない。
ここで僕が足りないと感じたのは、唐突ではあるのですが「恐怖譚」の視点なのです。つまり、怖い話の重要性。
これは最近何度もご紹介している『宗教のクセ』という本で語られていた話で、内田樹さんの発言を引用してみたいと思います。
一番怖い恐怖譚というのは恐怖を与えた実態が何なのか結局わからないという話ですね。(中略)境界線を越えて人間の世界に侵入してくるものがいる。うかつに扱うと大変な災いが起きる。でも、先祖から伝えられた呪鎮の作法を守れば、それは境界線の向こうに戻ってくれる。それで話は終わるわけではなく、またいつか戻ってくる。
内田さんは、こういった物語を通じて、子どもたちが「超越」「外部」「他者」といった概念を獲得していくと指摘しています。
「世の中には人知を超えた<恐るべきもの>が存在する」「それが到来すると、さまざまな災いをなす」「でも、ある種の作法を守ると、一時的にお引き取り願うことだけはできる」。これが恐怖譚の基本的な構成だというのです。
そして、この恐怖譚のカウンターにあるのが「自然科学」だと内田さんは語ります。
「この世に起きるすべての出来事は、たとえランダムに生起しているように見えても、実は数理的な美しい法則によって貫かれている。そして、その法則は人間知性によって、やがてその全容を明らかにするだろう……」と。
これは自然科学者たちが見据えている世界観であり、わかりやすい進歩史観とも言えるかと思います。
ーーー
この点、僕と同世代以上の方はきっと記憶していると思うのですが、1990年代に『特命リサーチ200X』という佐野史郎さんが主演のテレビ番組が流行っていました。
こっくりさんや口裂け女、金縛りなど、怖い話や心霊体験を科学で説明しようというバラエティ番組です。
これもまさに、子どもたちを中心に恐れられている現象に科学的なアプローチで迫り、その恐怖を和らげようとするような試みでした。
現代社会においても、同様のアプローチは様々な形で続いているように思います。
でも、こうやって科学や脳の問題に還元すればするほど、見落とすものがあるように思うのです。
ーーー
内田さんは、恐怖譚は「人間知性の限界に対する諦め」を表現していると指摘します。
人間が知り得ることにはおのずから限界があり、「人知の及ばぬ領域」には人間の知性は及ばないのだと。
「人間知性に対する期待と、人間知性に対する絶望、この二つが混ざり合って、ひとつの物語の中でふらふらと揺れ動く。良質なSF作品の多くがこのような構造を持っていて、それこそが人間として最も自然な在り方なのではないのか」と。
ーーー
この点、僕は最近つくづく思うのですが、「わかった!」とか「エウレカ!」という瞬間は、本当の意味で「わかった」のではなく、新たにわからないことが増えたという合図なのではないかと感じます。
以前も、このブログでも書いたことがありますが、10割の中の1割がわかっても、残りは単純に9割になるわけではありません。むしろ、新たな10割が目の前にまた広がっていくし、これが無限後退していくだけ。
別にこれは難しい話でもなんでもなくて、子どもの自慢げな「わかった!」という表情を見れば一目瞭然だと思います。子どもの誇らしそうな顔を見ながら、大人は「良かったね、またわからないことがひとつ増えたね」と心の中で静かに思うはずなんです。
そして、これは子どもに限らず、僕ら大人の「わかった!」にも同じく完全に当てはまるはずなのです。
ーーー
僕が恐怖譚が足りないと感じるのは、このわからないことに対する諦めの自覚が、現代社会において見落とされがちだから。
このあたりの重要性みたいなものを、丁寧に解いてくれていたのが小泉八雲や水木しげるのような表現者たちだったと思うんですよね。(奇しくもふたりとも山陰のひと)
だから僕は彼らの作品に、とても惹かれる。あとは村上春樹さんも、もちろんそう。
河合隼雄さんの息子さんである河合俊雄さんは『村上春樹の物語』という書籍の中で、
「村上春の世界がおもしろいのは、単に無責任に軽く流れていくポストモダンの意識の世界を描いているからではなくて、近代意識を飛び越したことで、前近代のあり方が噴出してくるところなのである。その意味では、夏目漱石が前近代と近代との間の葛藤を描いたとするならば、村上春間は、前近代とポストモダンの意識の解離を描いていると言えるかもしれない。」と書かれていて恐怖譚というのはまさに、このプレモダンの噴出の話そのものだと思います。
ーーー
現代社会では、あらゆる現象が脳の働きに還元されがちです。そして、そうすれば最終的にはすべての謎が解けて、真理に到達できると思っているひとが本当に多い。
そうやってすべてが科学の話に回収されてしまうからこそ、当然それをどうやって合法的に「脳」をハックできるかという方向にも、目が向きがち。
その結果、合法ドラッグのようなものが次々と生み出されてもいく。まだ規制されていないグレーな物質、SNSや様々なポルノ的なコンテンツなども含めて中毒性のあるものが、世に氾濫しています。宗教のあり方を見習えといわんばかりに。
しかし、本当に足りないのは「脳」や「意識」の世界では決して描き出すことができない、「異界」に対する畏敬の念ではないでしょうか。これはどちらかと言えば「心」や「無意識」の問題です。
例えば、日本の神道や仏教における自然崇拝、アニミズムの思想などは科学では説明しきれない「異界」への畏敬の念を表現していたと思いますし、もちろん妖怪なんかもそう。
ーーー
最後に、『宗教のクセ』の中で語られていた「ありがとう」についての考察が非常に興味深かったので、その話をご紹介して終えたいと思います。
死者を弔う行為が、なぜ行われるようになったのか、という文脈から次のような説明がなされていました。
以下再び本書からの引用です。
太古の人たちにとって、「死者が蘇ってくる」というのはすさまじい恐怖の経験だったと思います。だからなんとか「敬して」近づけまいとした。死者が戻ってくることへの恐怖を感じるというのは、宗教のスタート地点としては悪くないと思うんです。まず恐怖を感じて、距離をとる。それからだんだん間合いを詰めていく技術を洗練させてゆく。そして、ある時点で、「蘇ってきたもの」をもとの境位に立ち去らせるために一番効果的な方法は「ありがとう」という感謝の言葉を向けることだと誰かが気がついた。「ありがとう」というのは、死者の攻撃性・暴力性を解除しつつ、ちゃんと距離はとっている。相手の存在を認知し、その上で「もう来なくていいです」という含意を伝えている。
つまり、「ありがとう」こそが、一種の結界なのです。
この考え方は、例えば宮崎駿監督の『もののけ姫』の冒頭シーンにもあらわれていますよね。
アシタカが倒した「たたり神」に対するヒイ様のセリフ「何処(いずこ)よりいまし荒ぶる神とは存ぜぬも、かしこみかしこみ申す。この地に塚を築きあなたの御魂(みたま)をお祭りします。怨みを忘れ静まり給え」は、まさに弔いとしての「ありがとう」の一形態と言えると思います。
多くの人々は「ありがとう」を、親密な関係性の中で用いる言葉だと誤解している。
そのため、「なぜ、俺があんなやつにありがとうなんて言わなきゃいけないんだ、好きでもない相手にありがとうを言う筋合いはない」といった反応も生まれてくる。
しかし、それは大きな誤解だと思います。むしろ正しい距離を置きたい相手にこそ、積極的に「ありがとう」を使っていくほうがいいんですよね、たぶん。
ーーー
これは現代社会においても非常に重要な視点だと僕は考えています。
特に、SNSなどで攻撃的な言動が目立つ現代において、この「ありがとう」の本質的な意味を理解することは、コミュニケーションの質を向上させることは間違いない。
いろいろな方向に話がいったりきたりしてしまいましたが、結論としては、宗教や恐怖譚、その「わからなさ」を追求することで、世界の「わからなさ」に対する畏敬の念へともつながるんだろうなあと。
科学的アプローチだけでなく、プレモダン的なアプローチも含めたより包括的な世界理解に対するスタンスが、なんだかとても大事になってきていると感じる今日このごろです。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。