新しい革新的な技術や、その技術から予測される未来の輝かしい可能性が生まれてくるタイミングにおいては、より崇高な目的がソレにより達成できるのであれば、多少は誤った方向に人々を誘導し、騙すことも許されると考えるひとたちが増えてきます。
「その間に生まれる多少の犠牲は、手放しに肯定できるものではないかもしれないけれど、そのあとに訪れる輝かしい未来のためには致し方ないよね」と。
わかりやすいのは、原子力爆弾。そして今は、AIやweb3、トークンの領域でも似たようなことが起きている。
で、僕は、人間の一番愚かなところは、ここだと僕は思うんですよね。
じゃあ、なぜ僕はここが人間における一番愚かなところだと思うのか。その理由について、今日はこのブログの中で丁寧に書いてみたいなと思います。
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思うに、誰も悪意を、そのまま悪意として発露しようなんて思っていないと思うのです。
そこまであくどい人間なんて、世の中にはそれほどいない。
それよりも、多くの人が、今自分がやろうとしていることの危うさや騙しの要素と、未来の輝かしい可能性みたいなものを天秤にかけたうえで、より高次の目的達成に寄与するからという理由で、それは実行しても良いものだと考えてしまいがち。
なぜなら、そうなったほうが世の中は間違いなく良くなると信じているから。
だから、自ら進んで「怪しい」や「ペテン師」「嘘つき」と言われようとも、それを実行したがるわけですよね。
むしろ、そのようなことを世間から言われれば言われるほど、自分は人々は気がついていない何かを率先して引き受けていて、それをひとりで背負っているようなヒロイズムみたいなものにもつながるんだと思うんですよね。
実際、「君が笑ってくれるなら僕は悪にでもなる」ということが歌謡曲の歌詞から始まり、ありとあらゆるマンガや物語において、何度も何度も繰り返し語られる鉄板ネタでもある。
根本的に人間という生き物は、このような物語が大好きなんだと思うのです。
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で、コントロールしようとする側も、そうやって「わかるだろう」として「空気」として訴えかけようとしてくるわけですよね。
この話は、養老孟司さんがいたるところで語られている「昭和天皇の開戦の詔勅」の話にもつながってくるなあと思います。
ここでは、ネット上でも公開されている養老さんと斎藤幸平さんの対談から少し引用してみたいと思います。
日本人は、よく言われるように“空気”で動くんです。今度出す本(「壁」シリーズ最新刊、新潮新書、12月刊行予定)に丁寧に書いたんですが、昭和天皇の開戦の詔勅を読むと、仕方がないから戦争するという含みがあるんです。天皇陛下は、日本が置かれている状況をこと細かく説明したあとで、英米に宣戦布告するしか仕方がない、と続けておられる。「豈朕ガ志ナラムヤ(あにちんがこころざしならむや)」(どうしてそれが私の意思であろうか)と、私の意思ではないと、はっきり言葉にしているんです。それはとても日本的だと思えます。
これは本当にそのとおりなんだろうなあと思います。日本はずっと、似たようなことを「空気」のちからによって繰り返している。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」という考えのもと「この方法を選ぶことで、より理想的な場所に到達できるのだから仕方のない決断なんだ、黙っていろ」ということだとは思いつつ、やっぱりそれは違うよねと、僕は思います。
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そして、日本人はこのような空気で動こうとする分、厄介なことは、その空気自体を発信者が想定している以上に察しようともするわけですよね。
「なるほど!そのような未来を実現しようとしているんですね!であれば致し方ないですね」というふうに。そして、直接指示なんかされたわけでもないのに忖度に忖度を重ねて、それぞれの行動をしてしまう。
そして自分がいま行おうとしている非道徳的な行動も、より輝かしく、みんなが幸せに生きれる社会のためだと、自己正当化を重ねて「日本のために、全人類のために」とより一層活発に活動をしていくことになる。
でも、やっぱり繰り返しになりますが、より高次の目的達成のために騙しても構わないということになるのは、なんだか間違っている。
これはもう完全に倫理や道徳の世界の問題だと思います。
そこに違和感がないというひとがいるのも当然だとは思いますし、「そこに敏感になっていたら仕事なんてやっていられないから、完全に痛覚を切ってしまっている」というひともいるかと思います。
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その中で、僕個人が思う本当に大事なことは「より良くしたい」というその感性から生まれてくる感覚を、情理を尽くしてお願いし続けることこそが大事なのだと思います。そして、向かいたい先を正しく共有して、その実現において決して諦めないこと、だと思うんですよね。
それで、結果がでなければ、それまでだ、と思えるかどうか。
「多少の犠牲や嘘があっても、先回りして結果が出ればそれでいいじゃない?」じゃないんですよね。
「結果良ければすべて良し」という考え方だけは、やっぱりどこか間違っている。それだけは決して肯定してはいけないことだと思います。
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もしその論理で行ってしまうと、もしあのとき敗戦していなければ、やっぱりその犠牲は正しかった、ということになってしまうわけですから。
他国を植民地として侵略することも、そのうえで他の民族を虐殺することも許されることだったんだ、となってしまう。
でも、あの大戦において日本が勝っていようが負けていようが、間違っているものは間違っていると言えることが何よりも一番大事であったはずで。むしろ、それが誰にも言えないような「空気」を構築してしまったからこそ、日本はボロボロに負けたのだと思います。
だからこそ僕は、そのような判断ができる人間でありたいなとつくづく思いますし、そのような「空気」には決して加担したくはない。
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僕らは決して、社会的に成功するために生まれてきたわけではないはずなんです。(最近同じようなことばかり言っている気がする)
一人ひとりが、それぞれの人生において善く生きるために生まれてきているはずなんです。善く生きるために、社会的な成功を逃すのなら、それでも構わないと、自らが思えるかどうか。
それが、「生きる」ことや人生から試されているように、僕には思えます。会社や自らの「はたらく」の方向性において、そこだけは決して見誤りたくないなと。
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特にこうやってAIやトークンなど、何か新しい革新的な技術が雨後の筍のように出てきているタイミングだと、圧倒的な歪みのようなものがそこに生まれてきて「ここで下剋上してやるぞ!」という機運もドンドンと生まれてくる。
乗り遅れるな!と煽るひとたちも必ず現れてくる。
実際、冒頭の引用で養老さんが「この度出す本」として語られている『ヒトの壁』という新書では、すでにAIのこともはっきりと予想をしていて、以下のようにも語られていました。
2021年出版の本ながら、2024年現在を完全に予言しているような内容となっています。以下は本書からの引用です。
明治の開国以来、欧米に対する反応がいわゆる近代日本を作ってきた。ここで昭和天皇の開戦の詔勅を繰り返し引用させていただく。 「豈朕カ志ナラムヤ(あにちんがこころざしならんや)」 まことにやむをえないんですよ、自分のつもりじゃありませんよ。要するにすべては状況のせいである。自分の意志ではない。
それを陛下に言わしめたのは何なのか。この思考法を現代人は笑えない。
日本はIT技術化が遅れている。中韓両国に比較してもそうだ、なんとしてもIT化を進めなければいけない──たとえば、こういう言説はよく目にする。ではIT化が本当にわれわれの社会に幸福をもたらすのか、だれがそれを望んでいるのか、返ってくる答えは「IT化はまことにやむをえざるものあり、あにちんがこころざしならんや」なのだと思う。
古くはYouTubeやTikTokの違法アップロード、バイラルメディアのようなコタツ記事の量産、最近だとFacebookの詐欺広告などもそう。
仕方ない仕方ない、といいながら、なし崩し的に既成事実をつくってしまってから、実際にそれで上場をしたり、バイアウトしたりした人たちが、大きな顔をして自分たちこそが正義のような顔をしているのが、今のインターネット界隈の世界でもあるわけですよね。
その成功体験を、ここでもまた再び繰り返そうとしてくるに決まっている。もしくはそのときに負けたという自覚があるひとたちが「今度こそ一旗揚げてやろう!」と虎視眈々と狙っている。
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彼らは、そのような「化かし合いこそが、資本主義社会ですから」と嘯くわけですが、でもそれは果たして本当に正しいことなのか。
後ろめたいからこそ、なるべく見て見ないふりをして圧倒的に数字で勝って自己肯定感を高めようとしているだけじゃないですか、って思ってしまいます。自分の向かった先は決して間違っていなかった、と。
でも、それというのは何かに近づいているようで、遠のくばかりだと思います。もちろん、その声に対して群がるひとたちもそう。
たとえ、一個人としてその流れには決して逆らえないとしても、ひとりひとりが、ただ流されるだけでなく、自分でそのことの是非を考えられるだけの「余白」がちゃんとあるといいなあと思います。
そのためにこそ、善く生きたいひとたちが、それでも善く生きることを諦めないでいられる場所を静かに、でも着実につくっていきたいなあと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。