AIが出てきて、また世の中に詐欺師やペテン師のようなひとがドンドン増えてきたなあと思います。この状況を眺めて、騙すほうが悪い、というのは簡単です。

でも、だまされるほうには本当に責任はないのか。

このような現象を目の当たりにすると「騙すほうが悪い」と単純に結論づけるのはカンタンです。

しかし、本当にそれだけでいいのか。だまされる側には、全く責任がないと言えるのか。

今日は、このあたりの問題について丁寧に掘り下げてみたいと思います。

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まず、これは多くのひとがいたるところで引用しているので、ひとによってはもう耳にタコができてるような話だとは思うけれど、しかし今一度振り返る価値のある言葉があると思います。

伊丹十三の父である伊丹万作の、第二次大戦の敗戦後の有名な『戦争責任者の問題』という文章から引用してみたいと思います。

さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知っている範囲ではおれがだましたのだといった人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなってくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はっきりしていると思っているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思っているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもっと上のほうからだまされたというにきまっている。すると、最後にはたった一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。


この言葉は、「だまされた」という主張の裏に潜む複雑な構造を浮き彫りにしてくれているなあと思います。

人々が簡単に「だまされた」と言うことで、自己の責任を回避しようとする人間の性質を鋭く指摘している。

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で、この構造というのは、現代の選挙のなかにもよく見られる構造だと思います。

たとえば、現在真っ只中の東京都知事選などでも、同様の「だまし」「だまされ」のパターンが繰り返されているように僕には見える。

選挙期間中は熱狂的な雰囲気に包まれますが、終わればすぐになた日常に戻り、次の選挙までは政治への関心が薄れていく。

そして、何か問題が起きれば次の選挙のときに「あのときに都民はだまされた」と言い立てる。このサイクルが何度も繰り返されているわけですよね。

過去にもご紹介してきた宇野重規さんと若林恵さんの対談本『実験の民主主義 トクヴィルの思想からデジタル、ファンダムへ』でも、この問題が指摘されていました。

政治家は選挙時に「主権者は皆さんです。あなたの一票が国の将来を決めます」と訴えかけますが、選挙が終われば有権者のことを忘れてしまう。一方、有権者も選挙に行くことさえ面倒に感じ、投票後は「あとはよろしく」と政治家に丸投げしてしまう。これは、有権者をなめている政治家と、政治参加をサボりたい有権者が暗黙の了解のもとで手を組んでいるような状態だと言えるじゃないか、と。

そして、この構造が、現代の民主主義の一側面を形成してしまっていることは間違いないかと思います。

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で、このような話をする際には、どうしても「もちろん、騙す側が悪い」というエクスキューズを付け加えたくなるんです。

僕自身も、いまこの瞬間にブログを書く過程で何度もそのフレーズを書いては消してを繰り返してきました。

でも、今日はあえて、その「もちろん」という言葉に注目したいと思っています。

言い換えると、なぜ僕らは、このときに「もちろん」と言わずにはいられないのか。それは、だまされた側の責任を追及することへの抵抗感があるからなんだと思います。

しかし、伊丹は先ほどのエッセイの中で次のように指摘しています。

だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘違いしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。


つまり、悪質な場合、刑法や民法に基づいて、相手の責任を問うことができるからと言って、だまされた側に全く責任がないわけではないんですよね。

誰からも、あなたに対しての責任追及がなされないというだけ。自己が自己に対しては責任追及はできるはずなんです。

言い換えれば、だまされたとき、相手のせい”だけ”にせず、胸に手を当てて自らに深い反省ができるかどうかが、きっと僕らには試されている。

相手のせいにし続けていることは、社会はそれで許してくれるかもしれませんが、そこに自己成長の余地はなくなってしまうわけですから。

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伊丹はさらに踏み込んで、次のように主張しています。

だまされたものを必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、『だまされるということ自体がすでに一つの悪である』ことを主張したいのである。だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばっていいこととは、されていないのである。


この視点も本当にそのとおりですよね。

だまされることを単なる被害者としての立場ではなく、自らの意志の弱さや判断力の不足の結果として捉え直すことを僕らに促してくれている。

多少、厳しい言葉に聞こえるかもしれないですが、その率直な厳しさゆえに、僕はものすごく優しさに満ち溢れている文章だなあと思います。

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では、なぜ現代社会において人々は「だまされやすい」状態にあるのでしょうか。

AIや選挙の話題に限らず、たとえば最近だと新NISAのような金融商品においてもそう。

もし今後、アメリカのS&P500のAIバブルが一時的に弾けて、それと同時に円高に振れればダブルパンチで一気に含み損を抱える日本人は、大量に発生する。

そのときには騙されたという声は必ず生まれてくるかと思います。

結局のところ、人々は、このような状況下において「インスタントな全能感」を求めいるんだと僕は思うんですよね。

つまり過去への後悔を未来に投影して、その後悔なんとか回収をしたいんだけれども、だからといって別に努力したいわけじゃない。

「簡単に、楽に、わかりやすく、はっきりと」した形で何かを得たいという欲求がドンドン強くなっているんだと思うんです。

逆に言えば、「むずかしいこと、難儀なこと、わかりにくいこと、曖昧なこと」は避けたがる傾向にあります。

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当然、この心理を巧みに利用して、だます側は戦略を立ててくる。

彼らは、一般の人々が面倒くさがりで、他責思考であることをよくよく理解している。

そして、違法ではない範囲で、最終的に「だまされた」と騒いでもらえる程度が、都合が良いと考えているのだと思うんです。

なぜなら、そうすればまたその声に答えるような、インスタントな全能感を与える商品やサービスを与えればいいわけですから。その繰り返しです。

さらに、だます側というのは一般の人々のコンプレックスや不満なんかも同時に熟知しているわけですよね。

そのコンプレックスを刺激し、不満が解消されるような輝かしい未来のビジョンを見せてあげることで、人々を軽々と誘導することができてしまう。

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とはいえ、完全にだまされないことは、現代社会においてはほぼ不可能に近いと思います。

社会は常に高度に複雑化と専門化が進む中で、すべての分野に精通することは困難です。

僕自身も、門外漢の事柄に関しては、これまでも、そしてこれからもずっと他者からだまされ続けるだろうと認識しています。

ここで重要なのは、だまされたときに立ち止まって考える「余裕」を持つことだと思います。そして、他人のせいにするのではなく、深く自己反省できるかどうか。

流されないこと、流されて失敗したときに、他人のせいにして終わらせないこと。一人一人が自分で考えるための「余白」を持てることが、とても大事になるだろうなあと思っています。

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この点、人間が長期間にわたって騙され続けると、その影響は思考の根幹にまで及びます。

たとえば最近は「日本の芸人さんが欧米で受けているのを見ると、泣きそうになる」といったコメントを頻繁に目にしますが、この感覚は本人も気づかぬところで、戦後の植民地根性が骨の髄まで染み付いていることを感じずにはいられない。

このような話をしてしまうとどうしてもすぐに右翼的な思考だと言われてしまうのですが、でも冷静に考えて、戦後80年近くにわたる精神的な植民地支配が完全に成功している証とも言えると思うんです。

このような思考パターンは親子二代・三代につづいて、能動的に騙され続けた結果として生まれている一つの到達点であって、カルト宗教における教祖と信者の関係とさほど変わらないように思います。

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僕らを取り巻く環境や思考の枠組みを客観視することは、「魚にとっての水」を自覚することと同じくらいむずかしいもの。繰り返しますが、完璧にだまされないようになることは、不可能であることは間違いない。

でもそのなかで、今この瞬間における「水」とは何か、そしてなぜ自らはそれにだまされてしまったのか、そんな自己内省を繰り返しながら、社会との健全な関わりを保つことが、これからは大切なんだと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。