最近、社会学者・橋爪大三郎さんと大澤真幸さんの対談本『げんきな日本論』を読み終えました。
このおふたりのそれぞれの著作は以前から多数読んでおり、今回のおふたりの対談本は『ふしぎなキリスト教』以来に触れたことになります。
事前の期待通り、本書も非常に興味深い内容に溢れていました。
僕が、今回特に印象に残ったのは「鉄砲の伝来が日本社会に及ぼした影響について」の考察部分です。
ここで語られていた議論が、そのまま現代の生成AIがもたらす変革と驚くほど重なり合うように感じられたんですよね。
もちろん、鉄砲とAIは、一方は武器であり、もう一方はテクノロジーという違いはあります。
しかし、両者がもたらす社会的影響、特に既存の価値観や社会構造の「無価値化」という点で、驚くほどの類似性が見られるなあと思いました。
そこで今回は、16世紀の鉄砲伝来と現代の生成AIの導入を比較しながら、技術革新が日本社会にもたらす変化について、このブログ野中で少し考えてみたいなと思います。
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さて、具体的に本書の中で驚いたのは「銃を扱える人間に対する社会的評価の違い」です。
ヨーロッパでは、鉄砲が生まれた当初から、銃の扱いに長けた者は「銃士(マスケティアーズ)」と呼ばれ、その技能が威信の源となっていたそうです。
対照的に、日本では銃の扱いは威信にはつながらず、むしろ軽視される傾向がありました。
日本の武士文化において、刀の技術は最高の威信の源で、みんな大好き宮本武蔵のような剣豪は、その技によって、尊敬を集めていたことは周知の事実だと思います。
そして現代でもその評価はほとんど変わらない。
しかし、鉄砲の扱いに長けていることは、猟師でもない限り、社会的地位や尊敬には結びつかなかったそうです。
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以下はこのような文脈の違いについて、具体的に語られている部分になります。
さっそく本書から少し引用してみたいと思います。
日本に話を戻すと、鉄砲を導入しましたけれども、それでも刀には、ある種のカリスマ性があるじゃないですか。幕藩体制になっても、武士は武士だからと、刀を持っていることに異様にこだわるわけです。使いもしないのに。ちなみに、日本の戦前の軍人も、絶対に使いそうもない刀をもっていますね。
刀は、個人の英雄性に結びつくタイプの武器ですよね。もとをただせば、刀は一騎打ち向きです。武士は戦場で、自分がどのような由緒の武家に属しているか名乗りをあげ一騎打ちし、そこに誇りを覚える。刀は、このように武士的エートスと深く結びついている。江戸時代の戦わない武士でさえも、これに固執している。
それに対して鉄砲は、個人を際立たせないんですよね。それは、人々を集合化し、平等化する。集合として戦ったら強いかもしれないけれども、個人の威信にはつながらない。
この話は、きっと本当にその通りだったんだろうなあと思いますよね。
そして、生成AIにもなんだか非常によく似ていて、このような現象がすでに今起き始めている気がするんですよね。
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一般的に、生成AIの登場は、下剋上のようなことが起きると各所で語られていて、そんなことを語るトークイベントも、ものすごく盛り上がっているように見えます。
でも、じゃあ、なぜ東大教授や国会議員、IT企業の創業者が壇上の上から「みなさん、生成AIを使いましょう!」と語っているのか。
言い換えると「なぜそこにあなたたちが、居座り続けているのだ?」という問いも、本来は出てきてもいいはずなんです。
「あなたたちがそこに上り詰めた過程や根拠、いま現在行っている意思決定や思考過程がまさに今生成AIによって置き換わろうとしているのに」と。
でも多くの人は、そこには疑問を感じない。
東大教授だから、国会議員だから、大手IT企業の創業者だから、偉いから偉いんだみたいな感じで、彼らの言うことをそのまま真に受けている。
そして、そのような構造は間違いなく意図的に行われていると思います。「労働者のみなさん、この生成AIを大いに使いましょう!」ということになっている。このような状況を「令和の足軽」と呼ばずしてなんと呼ぶのでしょうか。
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実際すでに、AIの使い手としての専門家みたいなひとたちがネット上には多数溢れていますが、生成AIを使えるということで、彼らの威信や尊敬の念が増しているかといえば、決してそうではないですよね。
というか、誤解を恐れずに言えば、なんならすでに見下しているところさえあるかと思います。
本人の生産性は一気に高まっていて何倍にもなっていたとしても、社会的評価は何倍になるどころか、むしろ下がっているとも言ってもいいかもしれない。
この状況は、鉄砲の導入時に武士たちが示した反応と、驚くほど似ているなあと、本書を読みながら、僕は考えてしまいました。
新しい技術の力を認めつつも、それを自らの手で扱うのではなく、「身分の低い者」に任せるというような態度、そのスタンスです。
でも繰り返しますが、その身分制度やそれぞれの立場が変わってしまうような技術革新が、今まさに誕生しているのが生成AIのはずなのですよね。
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じゃあ、なぜそのような発想になってしまうのか。
鉄砲の威力の脅威に対して当時の武士たちが、どのような心理状況だったのか、非常に参考になるなあと思っています。
以下、再び本書から引用してみたいと思います。
橋爪 鉄砲の威力に対する驚異もあるが、鉄砲に対する軽蔑もあるんですね。軽蔑の根源を探って行くと、武士の屈折した心理です。武士は子どものころから刀や弓を一〇年、二〇年と修練し、使いこなして、戦士としての名誉を保っているのに、鉄砲はすぐ撃てるようになってしまう。しかも、刀や槍より強い。これが、軽蔑の根源になっているんですね。でも、使わないわけにはいかない。そこでどうなるかというと、補助的な武器として、身分の低い者に使わせる。それが足軽鉄砲隊である。そもそも、使うのに大変な抵抗がある。
こちらに関しても、きっと間違いなくそうだったんだろうなあと思いますよね。
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で、鉄砲によって戦争の形がガラッと変わってしまったあとの日本で、一体何が起こったのか。
一、戦争禁止
二、幕藩制
この2つです。つまり、江戸幕府の完成です。
これは社会の「フリーズ」、現状凍結であって、ここに幕藩制の本質があると本書の中では語られていました。
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ということで江戸時代のように、今回も社会の階層を「フリーズ」させる方向に向かう可能性も、なきにしもあらずだなと思ったんですよね。
ヨーロッパでは武器や兵器によって、社会が変革されていったわけですが、同じ鉄砲が入ってきても、日本とヨーロッパは、だいぶ違った反応になっていることが、この本を読んでいるととてもよく伝わってくる。
とはいえ、その「フリーズ」によっておとずれた江戸時代によって、実際に日本には太平の世が訪れて、士農工商のような身分制度も生まれ、その身分内においての流動性は一気に高まり、識字率も一気に高まって、見事に「町人文化」が花開いたわけです。
つまり、文化や経済面においては明確に良い方向へと、時代が動いたことも間違いないわけですよね。
このあたりの話も、本書には詳しく書かれてあるので、興味がある方はぜひ本書を実際に手にとってみて欲しいです。
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僕は、今日このブログにおいて、何が良い悪いという話をしているわけではありません。
それはひとりひとりが自分の頭で考えてみることだと思います。
今回はたまたま、いま僕の関心ごとと似ている部分があったから目についただけであって、鉄砲と生成AIは全然関係ないかもしれないし、本当にまるっきり重なるのかもしれない。
もちろん、多くのメディアが語るように、今回の生成AIは「黒船」であり、これから起こることは江戸幕府の誕生というよりも、むしろ幕末から明治にかけての民主化であり、華々しい変化なのかもしれない。
それは本当に誰にもわからないことです。
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でも当時の日本人は、足軽に鉄砲を使わせて統率したというのは、なんとも興味深い視点だなあと思います。
また今回も、似たようなことが起きても何もおかしくない。なぜなら、新しい技術を受け入れる側の「人間性」みたいなものはほとんど変わってはいないわけですから。
そして、これまで筆一本で勝負してきた、みたいなひとたちの株が、より一層上がっていく構造にもあるはずです。
それは生成AIの登場によって、宮崎駿さんの権威が失墜しているどころか、むしろ格上げされていることをみても明らかです。もちろん、それは新海誠さんであってもいい。
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名もなき若者がつくった創作物と、そのような既存の権威がつくった創作物、たとえ全く同じものがAIによって作り出せるようになったとしても、結果的に既存の権威のほうが、評価される社会になる可能性も十分にあり得る気がします。
そして、そのような現代の武士の極みのようなひとたちが、AIを使える足軽たちを大量に束ねた作品でこれからは勝負を仕掛けてくることなる。
結果として「スキルの無価値化」が起きたところで、既存のヒエラルキーが解体されるというよりも、むしろより強固に階層化されて、既存の組織構造が固定化されてしまう日がやってくるのかもしれないなと。
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AIを使わない未来は、もうほぼあり得ないとは思うけれど、それで現状の僕らが想像しているようなガラガラポンが起きて、より一層フラットになるような未来が訪れるというのは何の保証もない。
実際にフタを開けてみたら、その真逆のことが起きましたということも有り得なくはないなと。
そのようなこともちゃんと考えたうえで、今現在のような変革期を眺めていく必要があるんだろうなあと、この本を読みなが強く思いました。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。