最近、ブログやTwitterに書いたことで炎上することが少なくなったなあと感じています。
このような話題を持ち出すこと自体が、皮肉にも炎上を招きかねないので、あまり言及したくはありませんが、単純に炎上の頻度が以前と比べてガクンと減ったことは事実です。
この変化には、オープンな場でのコミュニケーション方法を工夫していることも関係しているとは思います。例えば、ブログを文字として公開せず、Voicyによる音声のみで発信するなど、テクニック的な対策を講じている点も確かにあります。
しかし、もっとわかりやすい理由があると思っていて、それはこのWasei Salonのタイムラインの存在なんですよね。
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ここに参加してくださっているみなさんであれば、すでにご存知のように、炎上しそうな内容は、すべてこちらに書いている。決してTwitter上には書かないようにしています。
もしこのタイムラインが一般に公開されていたら、今頃は大炎上を繰り返していると思います。
そう考えると、僕もどちらに書くべきなのか、それを書き分けられるくらいには大人になったということなのかもしれません。
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しかし、ときどき、他の人々はどうしているのだろうか、と考えてしまうんですよね。
多くの人は、もう自分で考えることそのものを完全にやめてしまっているのではないかと思う。
つまり、最近よく語られるような「自己家畜化」という現象に向かっているのではないかと思うのです。
この「自己家畜化」は、とても恐ろしい現象だなあと思います。
現代社会では、炎上という事態が一般化し、一体何を書かなければ炎上を避けられるのか、それが誰もが容易に想像できて、それゆえに無意識のうちに自己監視できるようになってしまいました。
AIによって炎上対策ができてしまうという事実が、この状況をより一層顕著に物語っているかと思います。炎上が予測可能な、ある種のパターン化された現象であるからこそ、その傾向を分析し、対策を立てることも比較的容易になるわけですからね。
しかし、そのような対策を講じることで、個々人における本当の意味での「自由な表現」の場を完全に失ってしまっているのではないでしょうか。
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この点について、以前もご紹介したことのある内田樹さんの『勇気論』の中に、非常に印象的な指摘が書かれていました。
それは「1930年代、つまり戦争前夜と、2020年代の現代が驚くほど似ている」という、近年よく耳にするようになった話です。
ただ、内田さんはそこからさらに踏み込んで、意外な視点を読者に提示してくれています。
以下は本書からの引用となります。
「1930年代の日本には治安維持法があり、憲兵隊があり、特別高等響察がありましたが、現代の日本にはそういう暴力的なシステムが存在していません。にもかかわらず、同じような同調圧力が存在しているのです。これは、ライオンがいないサバンナで捕食獣に怯えているシマウマのようなものです。
(中略)
私たちは憲法によって幅広い市民的自由を保証されています。ところが、市民的自由を法的に保障されている現代日本で、1930年代の日本と変わらないような同調圧力が機能しているのです。だとしたら、それは現代日本の同調圧力は1930年代よりさらに強いということになります。同調に抗う者を処罰する法的根拠も、処罰する政府機関も存在しないにもかかわらず、処罰されることへの恐怖だけはリアルに機能しているからです。」
もちろんこの指摘は、ここから現代社会におけるパノプティコン(一望監視施設)の概念につながっていきます。
パノプティコンとは、囚人が常に監視されているかもしれないと感じることで、自発的に従順になる仕組みを指しているわけですが、内田さんによれば、現代の日本人は、このパノプティコンの監視に怯えるあまり、自分の中に「想像上の看守」を創り出し、常時自己監視している囚人のような状態に陥っていると語ります。
人々が絶えずおどおどして、多数派の群れに紛れ込もうとしているのであれば、支配する側にとっては非常に管理しやすい状況となって、そのため、権力者は人々が常に怯えて暮らすように仕向けようとしてくるのだ、と。
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ゆえに、内田さんの『勇気論』においては、このような状況に対して「勇気を持とう」と呼びかけています。
僕も、この主張にはとても強く共感します。
しかし一方で、それが言葉で言うほど簡単ではないことも、一当事者として痛いほど強く理解しているつもりです。
じゃあ、なぜそれがむずかしいのかといえば、自己監視や自己家畜化はすでに深く深く、僕らの内側に内面化されてしまっているからですよね。
それが単なる言葉や一冊の本、そんなアジテーションによって簡単に変化するのであれば、そもそも内面化などしていないということにもなります。
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で、このようなジレンマを前にして、現代ではAIに本音を吐き出すという選択肢が出てきました。
AIならば、どんなにパワハラめいた発言をしても、どんなに過激な意見を述べても、許される。すべて受け止めてくれるし、彼らはへそを曲げない。
だから現状、これだけ重宝されている。
しかし、これも新たな問題も生み出してしまうと思うんですよね。それは、本音をAIにしか話せなくなってしまうこと。人間同士における、信頼関係が築けなくなってしまうということです。
本音はAIだけにしか話すことができない、これは何とも悲しいディストピアだなと思います。そして、残念ながら、現代の社会はすでにその方向に向かいつつあるように僕には見えます。
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僕らが生きていると、全然納得がいかないことって、本当に死ぬほどたくさんあると思います。
しかし、それを言葉にした時点で誰かの怒りを買い、互いに理解し合えなくなってしまう可能性が常に秘められている。
その予測可能性自体が、自分たちの中で発信しようとする意欲を完全に削いでしまうわけです。
で、その結果として、僕らは二つの選択肢に直面するわけです。
一つは、ある特定のドグマ(教義や信念)に対して固執することです。そうすればいちいち判断する必要はなくなりますから。そのドグマに沿っているうちは、どれだけ過激なことを語っても許される。
もう一つは、どのドグマにも共感できないがゆえに、ただ黙って口をつぐんで静かに暮らすことです。
しかし、どちらの選択肢も、本来あるべき姿ではないと思うんですよね。
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だからこそ、僕は先日もご紹介した村上春樹さんの「あえてそれを超えていこう」とする試みや姿勢が非常に重要だと考えています。
具体的には、『アンダーグラウンド』のあとがき部分書かれていた「そのとおりでありながら(そのとおりであることを相互認識しながら)、あえてそれを越えていこうと試みるところに、論理の煮詰まりを回避した、より深く豊かな解決に至る道が存在しているのではあるまいか」というあの話です。
村上春樹さんの小説やエッセイを読み続けていると、彼が読者との信頼関係をとても大切にしていて、何を書いていいのか、何を書いてはいけないのかを非常に緻密に、そして時には大胆に判断していることがとてもよく伝わってくる。
また、「これを書いた結果として、読者が離れるのなら仕方ない」という割り切りのようなものも、本当に強く感じられます。
だからこそ、言うべきところははっきりと読者に向けて語ってくれるし、そうじゃないところにおける読者への敬意の示し方も、計り知れないものがあるなあと。
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このように、リスクを認識し、それでも書くという姿勢が、今とても重要だなと僕は思います。
AIではこの「勘どころ」みたいなものが、まったく養われない。聞き手がどのように受け取るか、その反応を想定し、相手にしっかりと敬意と関心を持ちながら、表現することは対人間相手にしか養われない技術や感覚だと思います。
その実践経験が「人と人との距離感を適切に保つ」もしくは「あえて超えていこうとするという勇気」にもなりえるわけですよね。
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僕自身も、Wasei Salon内で自分のスタンスや前提を共有しながら、それでもメンバーが離れていくなら仕方がないと思いながら、常に書いています。つまり、常にそのリスクと隣り合わせの中で書くからこそ、意味があるなと思っています。
これはパノプティコンによる自己監視とは完全に似て非なるもの。
自分の言葉に対して、自分で責任を持とうというスタンスです。ただし、あくまでも顔の見えるクローズドな空間の中で、しかもダンバー数のような、お互いのまなざしをある程度想像できる距離感での話であり、この信頼関係の上に成り立っている「責任感」であることが大事なんですよね。
そして今、圧倒的に僕らの世代に足りていないもの。
若い人ほど、一人で孤独になるか、顔の見えない他者のまなざしを内面化し、SNS上で「いい人」として踊ることを強要されてしまうか、その2択になってしまっているわけですから。
そりゃあ、気が狂って、鬱になるのも当然のことだと思います。
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ということで、僕はWasei Salonのようなお互いのまなざしをある程度想像できる空間内において、お互いを脅かさない敬意を持ちあった関係性の中における、本音ベースの対話を作り出していきたい。
それが現代において、自己刷新を繰り返していける最良の方法だと考えています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。