「単純化して理解するか、複雑なまま理解をするか」この二つの選択肢は、長年にわたって議論され続けているなあと思います。そして、日々僕らの前に立ちはだかる問題でもある。
特に近年は、あまりの情報過多ゆえに「コスパ」や「タイパ」が重視される風潮もある中で、要約文化が台頭してきて、社会はますます物事を単純化して理解しようとする傾向にあるかと思います。
そして、この傾向に拍車をかけるように、生成AIの登場がありました。
「中学生にもわかりやすいように説明してください」といった要求なんかが一般的になり、複雑な概念や情報を要約し、単純化して理解することが、誰にでも簡単にできるようになってきました。
結果として、現代社会では単純化することのほうが圧倒的に優勢となっているかと思います。
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しかし、よくこのブログを読んでいる方々はご存知だと思いますが、僕はこれまで「複雑なことを複雑なまま」理解したほうがいいと考えてきました。
確かに、複雑なものをそのまま理解しようとすれば、大きな困難が伴います。それでも、そうすることによって到達できる理解の深さや広がりのことを考えると、たとえ歯を食いしばったとしても、複雑さからは目を背けてはいけないと思っていたのです。
言い換えると、単純化することは「悪魔との契約」にも等しいと考えていました。しかし、最近になって、そうではないのだということに気づきました。
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というのも、内田樹さんの新刊『凱風館日乗』という本の中で、実は「複雑なまま話したほうが、かえって話が早い」という話が書かれてありました。
これは僕にとって本当に膝を打つようなお話。内田さんは本書の中で、以下のように述べています。
「複雑な現実は複雑なまま扱い、単純化してはならない」ということを長く生きてきて身にしみて学んだ。「その方が話が早い」からである。話は複雑にした方が話が早い。私がそう言うと、多くの人は怪訝な顔をする。でも、そうなのだ。
で、内田さんは続けて、多くの人が「話を簡単にすること」と「話を早くすること」を同義だと考えているが、それは誤りだと指摘します。
実際は、まったく逆なのだと。話を簡単にしたつもりが、かえって現実がますます手に負えないものになるということがしばしば起こりうる。
現実そのものが複雑な時に無理に話を簡単にすべきではない。そんなことをすれば、話と現実の間の隔たりが広がるだけだと。
語られた話が、どれほどシンプルでわかりやすくても、それが現実と乖離した妄想であるなら、そのような「簡単な話」には現実を変える力はありません。
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しかし、内田さんは一方で、興味深い指摘もしています。実は「簡単な話」に基づいても、現実を変えることは可能なのだと。
だからこそ人々は「簡単な話」に魅了され、それに固執してしまうということなのでしょうね。
簡単な話は、僕らの知的負担を軽減してくれるだけでなく、確かにある種の実効性を持っていますよね。だからこそ、ここまでひろく要約文化が行き渡ってもいる。
ただし、どちらにせよ、複雑な現実を簡単な話に無理やり当てはめることによって生じた状況は、いわば力任せに作り出した「仮想現実」のようなものだと内田さんは語ります。
そういう「無理やり作り出した現実」には「現実である必然性」が欠けていて、そのため、持続力がないのだと。
しばらくは現実のような顔をしていても、そのうちに無理が祟って、内側から崩壊していきます。そして、形状記憶合金のように、元の「複雑な現実」という本来の姿に戻ってしまうのです。と書かれていました。
この内田さんの指摘は、個人的には本当に的を射ているなあと思います。
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さらに、内田さんは自身の研究対象であるエマニュエル・レヴィナスについても言及し、複雑な語り方の意義を説明しています。
レヴィナスは、私たちが「自分の手持ちの理解枠組み」に安住することを決して許しませんでしたと語るのです。
ここにも、なんだかとてもハッとしました。
というのも、先日Wasei Salonの中で開催された読書会の中でも、僕は似たようなことを思ったからです。
難解極まりない言葉が並んでいるような本でも、何かそこに大事そうなことが語られてあると思い、それが知りたいと思うからこそ、僕らは読書会を開催しようとしたり、自分でも言語化しようとしたりする。
そして、そこでうまく言葉にならないから、相手の言葉に耳を傾けて、そこで得られた他者の視点を頼りにしながら再解釈を行い、豊かな学びがそこに広がっているわけですよね。
これはWasei Salonの読書会に参加したことがある方なら、誰もがよく理解できるはず。
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もし、全てが単純化されていて自己完結できてしまったら、このような学びの機会はまったく必要なくなってしまう。
集まる機会自体も完全に時間の無駄であり、わかりきったことを語らされる、それはまるで反省文を書かされるような時間と同様になってしまうわけですからね。
ということは、複雑なことを複雑なまま語ってくれて、そこで集まる機会を提供してくれていること自体も、それは先人たちからの「贈与」であり「ギフト」そのものだなあと思います。
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さて、ここまで複雑性の重要性を強調してきましたが、じゃあすべての単純化が悪いのかというと、もちろんそうではありません。
適切な単純化にも有用性があります。そこで次に、単純化の持つ有用性について改めて考えてみたいと思います。
ここからは、これまでの流れとは真逆の話をします。
最近読み終えた、社会学者の橋爪大三郎さんの著作『4行でわかる世界の文明 』に、単純化の意義について書かれていた部分でとてもハッとするようなお話が書かれてありました。
橋爪さんは、本書の中で、わずか4行でそれぞれの宗教のモデルを説明するという挑戦的な試みを行っています。そして、そのような極端な単純化に対して、以下のように書かれていました。
以下は、本書からの引用となります。
こんなに単純化してよいのだろうか。それは、モデルを用いて何をやりたいかによる。どんなモデルであれ、それは単純化の産物である。物事の本質をしっかり捉えるために、枝葉の部分を切り落としている。枝葉も大事かもしれない。それでも、枝葉を切り落とす損失よりも、本質を取り出す利益のほうが大きいから、そうやってモデルをつくるのである。
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橋爪さんは、単純化の過程を「捨象」と「抽象」という二つの概念で説明しています。
「捨象」とは枝葉を切り落とすこと、「抽象」とは本質を取り出すことを指しています。そして、これらの過程に勇気を持って取り組まなければ、対象の本質を理解することはできないと主張します。
さらに、人間が言葉を使うこと自体が世界を捨象/抽象するはたらきであることも、同時に指摘します。これは完全なる盲点と言うか、灯台下暗し的な視点でしたが、本当にそのとおりだと思いますよね。
つまり、僕たちは日常的に意識せずとも毎日言葉を使っている中で、世界を単純化しているわけなんです。
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もちろん、極端に単純なモデルに対しては、疑問の声が上がることはまちがいない。しかし橋爪さんは、「単純だから、よいのだ」とも主張します。その理由を、以下のように説明しています。
再び本書から少しだけ引用してみたいと思います。
現実は複雑である。複雑なので、そのまま認識することはできない。誰でも現実の一部を切り取って、自分に都合よく認識している。言葉を使うのも、そうしたやり方の一つだ。
モデルはそれを、自覚的に行なう。複雑な現実の、枝葉の部分を思い切ってばっさり切り捨てる(捨象)。そして、いちばん大事な部分だけを、取り出す(抽象)。そうしてモデルをつくると、複雑な現実の本質が理解できるのだ。
ただし、橋爪さんも本書の中で強調するように、何が枝葉で何が本質かを見分けるのは、モデルを作る当人の責任です。
何が本質かということに対して、目印がついているわけではありません。捨象/抽象をうまくやればよいモデルができ、やりそこなえば、ダメなモデルになってしまうわけです。
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さて、これらの議論を踏まえると、僕たちは物事を単純化し、モデル化することによって、現実における「本質」を理解することができるようになると言えるかと思います。
言い換えれば、本質を理解するために単純化し、核となる部分を把握すること。
しかしそれと同時に、それだけが世界のすべてだとは思わずに、それはあくまで「仮想現実」であって、その周辺に圧倒的な「複雑さ」が依然として存在することを理解することが重要なのでしょうね。
それはちょうど、現実を模倣したメタバース空間には物理法則や空気、未知のファクターXが存在しないみたいな話です。でも現実世界には、それがそのまま依然として存在する。
つまり、単純化ばかりに傾倒していると、単純化された世界が現実そのものだと錯覚してしまう危険性があるわけです。これを避けなければならない。
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なぜなら、僕たちの最初の一番の目的は、その「複雑な現実」といかに対峙するかという問いだったはずだからです。
世界というのは、いついかなる時だって、曖昧模糊としたモヤがかかった状態にある。
科学が進歩すればするほど、哲学が深まれば深まるほど、それがドンドン霧が晴れていくと昔の人達は思っていたわけですが、むしろ、それはどこまでいっても曖昧模糊としたモヤが広がる一方であり、謎は深まるばかりということが、判明した状況がまさに現代なわけです。
逆に言えば、この複雑さと向き合うことの困難さが、人々を単純化へと向かわせる一因となっているとさえ言えるのかもしれません。
「すべての事柄には、明確な原因と結果がある」と思い込むほうが、人間の心理的にはずっと楽なわけですから。
また、だからこそメタバースのような仮想世界や、整然とした都会のような「脳化社会」に逃げ込むことによって、このような複雑さからちょっとでも目をそらすこともできる。
だから、ひとはいつだってそうやって、複雑性をできる限り回避した方向に世界を変えていこうとするんでしょうね。
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しかし、そればかりでは本当の現実世界の本質を捉えそこねてしまいます。
大切なことは、複雑な現実、その本質部分を単純化の過程で理解をしつつも、同時にそれを取り巻く「モヤ」として捉え続けることだと思います。
「これが本質なのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。また全く別のところにその本質はあるのかもしれない」という自覚を持ちながら、漸進的に理解を深めていく姿勢が、とても重要なのでしょうね。
結局今回も「常に問い続けることが大事」といういつもの結論に到達してしまうわけですが、単純化したものが世界のすべてだと思わず、常に複雑な現実にも目を向け続ける事が大事であることを改めて強く認識する機会になったなあと。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。