現代は、見た目や年齢、学歴や収入、趣味趣向によって、コミュニティが形成されることが多く、どうしてもフィルターバブルに陥りがちです。

そんなふうに客観的に同質であるように見えるひとたちの中にいると、とても居心地が良い反面、「もしかしたら自分は、フィルターバブルの中にいるだけなんじゃないか…?」と常に不安な気持ちがつきまとうのも事実だと思います。

だから、少しでもそのフィルターバブルから遠ざかろうと心がけて、海外旅行にでかけてみたり、多拠点居住をしてみたり、本業だけではなくボランティア活動などをしてみたりするわけですよね。

そして実際に、そうやって自らと見た目や年齢など、客観的な指標が大きく異なるひとたちと交流できれば、僕らはフィルターバブルからちゃんと抜け出せているのだと、やっと安堵できるわけです。

でも、2023年の落とし穴っていうのは、まさにここにあると思うんですよね。

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具体的には、そうやって異文化交流をしてみたり、世代間交流をしてみたりしてみても、ものすごく同質性の高い空間に行ってしまっている、むしろ、選ばされてしまっているという状態になっている場合が多いなあと感じます。

もっと言うと、その情報収集する過程が、そもそも自らに最適化されてしまっているわけですよね。過去10年以上ものあいだインターネットに染まってきた僕ら、とくに若い世代は、多感な時期も含めてインターネットによってその欲望を形成されてしまっているわけです。

だとすれば、そこで蓄積されてきた「異文化交流のために訪れてみたいと思う場所や国」自体だって、既に異文化ではなく「同質文化」を形成している可能性が、非常に高いわけです。

それは、一時期の若者がみんな、異文化を知るためにという理由で世界一周をし、ウユニ塩湖で写真を撮ったり、カンボジアで小学校を建てようとしていたりしたように、です。

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で、やっぱりこういう話をすると、すぐに思い出されるのが、作家カズオ・イシグロさんのあの有名なインタビュー記事。

「横の旅行」と「縦の旅行」の話です。

発表当初だけではなく、ことあるごとに何度もTwitterなどでバズっている記事のため、きっと既に読んだこともある方は多いと思いつつ、知らない方のために、ここで少しだけ該当部分を引用してみたいと思います。

以下は、「カズオ・イシグロ語る『感情優先社会』の危うさ」という記事からの引用です。

俗に言うリベラルアーツ系、あるいはインテリ系の人々は、実はとても狭い世界の中で暮らしています。東京からパリ、ロサンゼルスなどを飛び回ってあたかも国際的に暮らしていると思いがちですが、実はどこへ行っても自分と似たような人たちとしか会っていないのです。

私は最近妻とよく、地域を超える「横の旅行」ではなく、同じ通りに住んでいる人がどういう人かをもっと深く知る「縦の旅行」が私たちには必要なのではないか、と話しています。自分の近くに住んでいる人でさえ、私とはまったく違う世界に住んでいることがあり、そういう人たちのことこそ知るべきなのです。


この点、僕自身も、「横の旅」をしすぎていたなあと今は強く反省しています。

確かに、異文化っぽいものにはたくさん出会ってきたのだけれども、それさえもすでに知っている想定内の「想定外」に出会って、ただ満足していたというような状態に近いとも言える。

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じゃあ、どうすれば、僕らはカズオ・イシグロさんが語るような「真の縦の旅行」をすることができるのでしょうか。

これは変な話なんですが、異文化に意図的に出会いに行くというよりも、気づいたら異文化に出会ってしまっていたという体験のほうが、実は重要なんだろうなあと。

この点、最近、僕は立て続けに「本当に、どうして…?」と思うようなひとたちにひょんなきっかけで出会いました。

ここで詳細を語ることは避けますが、僕は彼らを完全に蔑んで、片方は相手が泣き出すんじゃないかというぐらいに、淡々と理詰めをしてしまって、今はものすごく反省をしています。

ただ、今はそうやって自分基準で不快極まりないひとに出会ってしまったことに、ものすごく感謝しています。

「あー、こんなにも自分の予想を遥かに超えてくるひとたちがいるんだ、すごくおもしろいなあ」と冷静になってみて思います。

本当の「縦の旅」というのは、コレだなと。

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そしてこればかりは、自らの足で町の中を散策してみるしかない。

もしくは、今とはまったく違うことを始めてみて、不意に訪れる想定外のタイミングで出会ってみるしかないのだろうなあと。

そして、そのようなひとたちって、実はものすごく身近に、それこそ隣にいたりもするわけです。

逆に心理的な距離が近すぎて、実は遠ざけていたような場所に、存在するのかもなあと。

たとえば、遠い親戚なども含めた自分の家族だったり、小学校時代の親友だったり、彼らのほうが、もしかしたらよっぽど異世界交流につながるかもしれない。

まさに、灯台下暗しなんですよね。

ゆえに、久しぶりに地元に帰ってみるのも、非常に効果的なんだろうなあと思います。

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僕らは、自らのフィルターバブルから逃れようとするときに、遠く海の向こうに異文化を求めがちだけれども、そうやって求めれば求めるほど、むしろそのリサーチ段階で自らに最適化された情報が提供されてしまい、同質性の高いコミュニティにハマってしまう。つまり「横の旅」をしてしまう。

そしてそこでは、想定内の「想定外のこと」しか起こらない。

すなわち、予想通りのことが起きるなかで「いま私は、異世界交流をしている!」と思わされてしまうわけです。

それっていうのは、確かに身体的な体験を伴っていることなのかもしれないけれど、クーラーの効いた部屋で、コカ・コーラやお酒を片手に見ているドキュメンタリー映画を見ていることと対して変わらない。

だったら、あまりにも見慣れすぎて不快感さえ感じてしまう地元みたいな場所に帰ったほうが、実はよっぽど「縦の旅行」になるのではないでしょうか。

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そして、そこですぐに安易な「チェンジ」をしないこと。

このチェンジというのは「訂正可能性の哲学」の中にでてくるお話です。

「意見が異なってもチェンジせず、むしろそれをおもしろがる、その上で共にいる」ってことを強く意識してみること。

言い換えるならば、違ったら交換するという「チェンジ」の思想を自らの美学にしないこと。これからは、コミュニティが中心になっていく世の中で、これは非常に重要な視点だと思っています。

なぜなら、チェンジを良しとしてしまっては、意見が同じタイミングにおいては共にいられるかもしれないけれど、そうじゃないと、すぐさまどちらかが抜けていくし、いつまで経ってもコミュニティ形成がうまくいかないからです。

むしろ、安易にチェンジをしない美学それ自体を共有していかないと、そもそもコミュニティ自体が破滅する。

インフルエンサーやYou Tubeはヒト・モノ・コトすべてにおいて、目まぐるしく「チェンジ」していくことを、コンテンツにして大成功をおさめたわけですが、もうこれからは、それだとうまくいかないはずです。

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もちろん、昔の村社会のように、村八分にするとか、掟でガチガチにするとか、そうやって強制的に抜けないようにするわけではなくて、もっとお互いにチェンジをしないほうが真の意味で価値があると理解し合った上で、それでも共にいるということを選択すること。

それが、僕が最近何度も語り続けている「沈黙」という態度や、スタンスにもつながってくるのだと思っています。

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多くのひとは語らないけれど、国内外問わず、長いあいだ旅をして続けてきた人間だからこそ、いまとっても大事な観点だと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとって、何かしらの考えるきっかけとなっていたら幸いです。