会社も学校も「出社や登校をするべきか否か」という議論は、ここ数年のあいだずっと議論されている事柄です。

この問題の本質は、どちらがよりクリエィティブで生産的な仕事や学習を行えるのか否かという部分にあるのだと思っています。

このクリエイティブや生産性に対して、さまざまな研究結果、そのエビデンスを用いてお互いに主張し合っていますよね。

そうやって、自らは客観的な指標を用いているのだから絶対に間違いない、こちらのほうがより優れているんだ、というポジショントークをそれぞれにしあっているように僕には見える。

でも、ここにも明確な「エビデンスの罠」があるなと思います。


もっと具体的に言うと、それぞれの参加者の個人の主観、そんな「ひとの心」が完全に無視されてしまっているなあと思います。

本来、この議論は、出社や登校をするべきかの二項対立というよりも、そこに当事者の主観として「自発的か、受動的か」という要素も加えて、少なくとも四象限のマトリクスで考えたほうがいいはずなのです。

今日はそんなお話をこのブログの中でも少しだけ。

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この点、経営者も学校の先生も、どちらも出社や登校を過度に求めているのは、自発的に出社してもらったときが、クリエイティブや生産性において最大の効果が発揮されると信じて疑わないからだと思います。

そして、それは圧倒的に間違いない真実です。

一方で、それを拒む社員や生徒は、そもそも自らに自発的な要素が失われている状態なのだから、それで現地に無理やり駆り出されても、現地に行くだけで疲弊するだけだと思っている。

だったら、自発的でいられるリモート(オンライン)環境のほうがいいと感じているわけですよね。

こちらも、一方で圧倒的に間違いない真実だと思います。

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つまり、このように実はどちらも、非常に合理的な主張をしているわけです。

四象限のマトリクスのそれぞれの象限のその順位をまとめてみると、きっと「①自発的+出社>②自発的+リモート>③受動的+出社>④受動的+リモート」の順のわけです。

ただ、この優先順位は誰が見ても明確なのだけれども、お互いの要求してきているところを共に誤解し合っているということなんだろうなあと思います。

ここが僕が思うこの問題の本質です。

つまり、経営者側は、社員のリモート要求それ自体を、一番生産性の低い状態「④受動的+リモート」を求めてきていると思ってしまっている。

そして社員側も、経営者は「③受動的+出社」を求めていると思ってしまっている。

だったら、自分たち社員が求めている②のほうが、圧倒的に生産性は高いだろうと信じて疑わないわけですよね。

どちらの主義主張も、非常に真っ当で正当なものだと感じます。

そして、国内外問わず、各種公的な研究機関は、どちらの論理においても、非常に都合の良い数字、つまりエビデンスを提供している。

それはたぶん、そうすることで、色々な、本当に色々なメリットがその研究機関ごとにあるからなのでしょうね。

ここで、話が噛み合わないのは当然のことです。だって、お互いにそうやって客観的に証明されたエビデンスに基づいて主張しているわけですから。

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このように僕らは、何事においてもエビデンスに基づいて、客観的な状態を完成させさえすれば、たったひとつの最適解にたどり着くと信じて疑わない。

そして、それぞれが自分にとって有利なエビデンスに基づいて、これこそが客観的な正義だと信じ込んで主張するわけですが、その結果として、完全にお互いが島宇宙状態にあるわけですよね。

結果的に、そうやって客観的に判断できる状態だけに固執すればするほど、ひとりひとりの至極主観的な「人の心」が、完全に無視されてしまっている状態にもつながっていく。

最終的には、誰も意図していない「分断」が進んでしまうことも当然のことだと思います。

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この点、先日もご紹介したシラスの「君たちはどう学ぶか」の鼎談動画の中で「すべてオンラインで完結しているN高の生徒たちが、最終的には、子どもたちが自発的に集まって、イキイキと活動している」という話が語られてありました。

その話のあとに、一瞬の沈黙が流れたあと「散々ここまで話してきたのに、結局はリアルの学校が良いということ…?」となっていました。

もちろん、これは笑い話のように語られていたわけだけれども、大事なことは本当にコレだと僕は思います。

確かに、このときに起きていることは、客観的に見たら、今までの一般的な学校と何も変わらないわけだけれども、子どもたちの意志、その主観は全く異なるどころか、正反対なわけです。

だから、彼らはイキイキしている。ゆえに、本来はもっともっと当事者である個々人の主観の変化のほうに目を向けたほうがいい。

つまり、客観的な条件ばかりを整備しようとして、生徒や社員ひとりひとりの主観的な声に耳を傾けてこなかった、そのかわりにエビデンスばかりを求めてしまった弊害が今なのだと僕は強く思います。

むしろそうやって、エビデンスを無視して自らの主観を重視する人たちに対して、「すぐに被害者になろうとしている弱くてずるいヤツら」、ときには彼らを「繊細ヤクザ」と揶揄し、彼らの主観を踏みにじってきてことに、一番の原因がある。

無理やりエビデンスを印籠のように掲げて、自分にとって都合のいい振る舞いを押しつけてきたことがその諸悪の根源だと思います。

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ひとりひとり、顔のある人間に「自発的に行きたい、通いたい」そう思ってもらうためにどうすればいいのか。

そのためには、逆説的なんだけれど「一切来なくて良い、通わなくても良い」としなくちゃいけないんだと思います。N高の生徒たちが、実際にそうだったんだから。

そのうえで、自発的に来てもらう、通ってもらう。

この点、僕だっていま好き勝手に日本中を旅しているわけですが、絶対に行かなければいけないと言われたら、たとえどれだけ好きな地域であっても、もうその瞬間に絶対に行きたくありません。

本当にそんなもんだと思います。誰だって、強制的なバカンスなんて、一切バカンスだと感じないですよね。

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現地に行く意味、行く価値、そこをみんなで考える場が必ず必要であって、その対話の結果として、それぞれが納得感を持って従事できるようになることが、何よりも大切です。

そのためには、やっぱり余白の時間、それぞれに考える空白の時間がめちゃくちゃ大事になるのだと思います。

ここ最近、何度も繰り返し書いてきた「沈黙する時間」や「サナギになる時間」が本当にいま必要だなあと思う。

それが存在しないこと、エビデンスさえあれば個々人の主観は一切無視してもいいと思われてしまっていること自体が、いまの社会や世間の一番の問題だと僕は思います。

エビデンス至上主義のひとたちには、なかなかに理解されにくい話だとは思いつつ、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんいとっても、今日のお話が何かしらの考えるきっかけになったら幸いです。