最近、Twitterで以下のツイートがバズっていました。
僕自身も「間違いなくそうなるだろうなあ」と思いました。
ただ一方で、僕がもっと強く思うのは、むしろ親のほうこそ、AIを挟まないと子育てできない、子どもと満足にコミュニケーションを取ることもできない、という形になっていきそうだなと思います。
で、本当の問題は、むしろこっちにあるんじゃないかと思います。
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90年代やゼロ年代のドラマによくありがちだった、子どもたちと満足にコミュニケーションが取れなくて、オロオロしている両親の絵面って、当時のある種のテンプレートだったと思うのですが、まさにあのようなイメージです。
いま現在、インターネットやスマホがなければ、満足に子育てができない親が多いように、今後はAIがなければ、子育てができないようになっていく。
さらには、子どもと直接のコミュニケーションでさえも、AIなしでは満足に取れないという親が、これからは続出していきそうだなあと。
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でも、そのような世界線においても、この世界に生まれてくる赤ちゃん自体は、何千年も昔から何ひとつ変わっていないわけですよね。
1000年前の赤ちゃんも、今の赤ちゃんも、持って生まれてくるものはまったく同じ。
今の赤ちゃんのほうが、生まれた瞬間からAIに最適化されている、なんてことはないわけです。
つまり、いつだって変わっているのは「育てる大人」側であって、その大人たちが構成している「社会」の問題なのに、僕ら大人は勝手に「子どもが変わってしまった」ということにしてしまう。
こどもたちは、ただただ、生まれてそのまま社会の形に適用をしただけなのに、です。
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さらに、この状況の背景には「資本の他者性」の話も、深く関係してくるだろうなあと感じています。
この点、最近、オトバンクで配信されていた疫学者・三砂ちづるさんの講演音声を聴きました。
かつては村落共同体や家族が自然に支えていた「お産」という行為が、いつの間にか医療行為として病院に依存する形に変わってしまったというお話。
もちろん、医療化によって、安全性や個人の自由という恩恵が生まれたことは間違いありません。
しかしその一方で、共同体が本来担っていた役割が失われてしまったこともまた事実です。
そして、このような三砂ちづるさん発言は、ともすればリベラルやフェミニズムのような立場から批判されることは間違いない。女性を過度に共同体に縛り付けようとするものだからです。
そして、その指摘も一方で何も間違っていない。なんなら、圧倒的に正しい。
でもその「安全」や「個人の自由」のために、消えていった昔の共同体の中で当たり前だった姿も同時にたくさんあるんだろうなあと思うのです。
僕は、そちらに対しても、ちゃんとしっかりと目を向けてみたいなと思うんですよね。
つまり、共同体でのつながりを犠牲にして「安全」や「個人の自由」を追求した結果、人間同士の自然な交流が弱まり、それを市場化されていったというような構図に対して、です。
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他にも、最近の問題で言えば、インターネット詐欺の増加なども、その延長線上にあるなあと思います。
先日、クローズアップ現代で「ミャンマー“国際特殊詐欺”の闇」という内容が放送されていて結構話題になっていましたが、
番組を観ると、本当に驚くほどの大規模詐欺グループ拠点が、ミャンマーの奥地に築かれていて、ここまで組織的に狙われていたら、そりゃあネット詐欺が後を絶たないよなあと思います。
コロナ禍のときに「グローバル社会になった今、世界のどこかでウィルスが蔓延する限り〜」みたいな話がよく語られていたけれど、オンラインやSNSで世界が完全に繋がった世界では、全く同じことが「詐欺」にも言えるなと、この番組を観て思いました。
本来、それぞれに共同体を築いていて、それぞれにある程度独立をしていて、昔にはこのような詐欺は存在しなかった。
でも現代の特殊性は、ミャンマーの奥地であることなどは一切関係がなく、どこからでも日本のインターネット空間にカンタンにアクセスすることができる。
そして、なおかつ、その空間にいる個人個人がひどく孤立させられる。だからインターネット上が一番詐欺しやすい場所にもなっているわけですよね。
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その詐欺に合う瞬間に、たとえ隣に親や家族、仲の良い友人が居たとしても、無言でスマホの世界に入り込んでいたら、お互いがネットの海の中で完全に「孤立」しているような状態なわけですから。
そこで頼りになるのは、それぞれのネットリテラシーのみ、です。
で、さらにそうやってバラバラにしていくことを加速していくのが資本主義の下で蠢くAIだということなんでしょうね。
何もかもが便利になっているように見せかけて、実はドンドン個々人を孤立化に追い込む形が進行している。
そしてこれはもう不可逆であって、行くところまで行くことは間違いないと思います。
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で、さらに僕がここで厄介だなあと思うことは、そんなふうに巧妙な手口で、一回追い込み、そこからさらにまた引き上げようとすることもまた、ネットの常套手段であること。
いちばんわかりやすいのは、YouTubeの広告問題とかですよね。プレミアムに課金することによって、邪魔な広告が消えるあの構造。
提供者側自らがそのような状況をつくりながらも、そこで手を差し伸べるような有料サービスをつくることで、ユーザーから「助かりました、ありがとう。」と言わせることができてしまう。
でも、そんなわけがないんですよね。その状況をつくったのはあなたたちだろう、と。そんな欺瞞もまた、まかり通る世界なんですよね。
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きっと、これからは心の問題においても、同様のことが起き始める。
社会の中でドンドンとAIを推進しながら、人々を分断し孤立した人々を、再度つなぐために、さらなる課金のサービスが生み出される。二重課税みたいなことが、起き始めるわけです。
でも、それっていうのは、もともとは何もせずとも、つながっていたもの。
お産がもともとは医療行為ではなかったという話と、まったく同じ構造です。
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昔ながらの家族や共同体の姿に夢を見て、お醤油を隣の家から借りれるような三丁目の夕日のような世界観ではなく、「コンビニに100円を持っていけば、その100円で誰もがおにぎりが買える世界がいい。」というのは、本当にその通りで、僕もそんな世界がいいと思います。
誰もが公平にサービスを受けられる社会のほうがよいことは間違いない。
でも同時に、それによって失っているものに対しても、ちゃんと目を向けていきたいなあと思うんですよね。
そのような社会を歓迎することで、僕らが失っているものがあることも間違いないわけですから。
さもないと、これからはむしろ、すべてがそうやって資本主義の世界に最適化さた結果、個々のデータによって判断されるという世界がやってくるわけだから。
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成田悠輔さんが新刊の『22世紀の資本主義』の中で今後「あらゆる取引が、あらゆる購買が、エルメス的になる。バーキンを売るかどうかと似た発想があらゆるやりとりに適用される。」と書かれてあったけれども、本当にそう思います。
過去に、何度も書いてきたように資本主義が行き着く先まで行き着いて、すべてが個別化されていけば、「あなたが”あなた”だから差別される」という世界線がやってくる。
値札がついているけれど、購買ヒストリーなどによって購入できない世界、買えるとしても、人それぞれにその価格がまったく異なる世界が必ず到来する。
なぜなら、それが一番、「資本の他者性」にとっては都合がいい状態になるわけですから。
そうやって、個々人が完全に孤立化されたあとに、そのことに対して不平不満を述べてみても、そして、昔の共同体を懐かしんでみても、完全に後の祭り状態だと思うんですよね。
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今日の話を最後にまとめると、資本主義社会において何かが商品化される過程において、「安全性」や「個人の自由」を追求するあまり、かつての共同体的なつながりや家族、隣人との関係性など、非効率的だけれども、人間的で価値のあったものが、ことごとく失われてしまうということです。
そして、この流れはもはや不可逆であり、きっと誰にも止められない。つまり、抗ってみても仕方ない、行きつくところまで行くはずです。
だとすれば、僕らはそれぞれに自衛手段を用いて、過去や歴史などに丁寧に学びながら、これまでの共同体の中で存在したつながりや支え合いを、どのようにして今の世の中に最適な形で再設計していくのかを、考えることが大事なんだろうなあと。
僕は引き続き、次の時代にあった古くて新しい共同体や、人と人とのつながりを考えていきたいなあと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。

2025/03/07 20:52