最近観ていたゲンロンカフェの動画の中で「秘密とはなにか?透明性や公共性と、秘密と嘘の関係性について」語られてあり、このお話が非常におもしろかったです。
何か具体的な話が語られていたわけではなく、ただただ最後に「問い」として共有されていただけだけれども、いまこの時代に「秘密」について考えるのは、非常におもしろいなあと思いました。
今日は自分なりに、秘密と共同体やコミュニティの関係性について考えてみたいなあと思います。
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この点、一般的には秘密というのは悪であり、基本的には開示したり透明性を高くしたりすることが善だと捉えられがちです。
相手への不信感が募れば募るほど、そうやって、「すべてを開示しろ」という話になるかと思います。今の政治と金の問題なんかは、その最たる例ですよね。
しかし、本当にすべてを開示すれば信頼が深まるかというと、必ずしもそうではないのではないか、と最近は感じています。
特に、オンラインコミュニティを実際に運営していると、その想いがとても強くなる。
コミュニティとは人間同士がつながり、共に存在する場ですが、だからといって各人の持つすべての情報を完全にオープンにすることが望ましいわけではありません。
むしろそこには、秘密があるからこそ、保たれる信頼感や安心感、敬意が存在するのではないのかなあと。
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また、ここには、明確に秘密のパラドックスのようなものも存在しているなと感じています。
秘密は秘密である限り伝えられずにいて、もし伝えられた瞬間には、それはもはや「秘密」ではなくなる。
そうすると、秘密というのは、つねに「他者」との関係性において考えられることだと思うんですよね。
なおかつ、更に興味深いのは、そんな秘密とは自分の中にありながらも、自分自身でさえも完全に掌握できないものでもある点です。
なぜ自分がソレを言えないのか、自分でもいまいちよくわかっていない。
これは逆に言えば、いまいちよくわからないからこそ、それを秘密として抱え込んでしまっているということでもあると思うんですよね。
つまり、他者に対して常に何かを「隠し」、また完全には伝えることができない、ということが、人間の根源的なあり方の中に組み込まれてしまっているなとも言えるわけです。
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僕は、これが人間存在そのものの核心を突いているような気がしています。
僕たちは、他者との関係性のなかで自分のアイデンティティや自己を確立しつつも、その自分自身のすべてを、完全に他者に明かすことはできない。
他者から見れば、僕たちは常に「何か秘密を抱えた存在」であるということです。
じゃあ、それを共同体としてどのように共有をし(もちろん、ときに共有もせずに)共にその「秘密」というものを抱えながら、それぞれが共にいるか、を考えてみたいなあと僕は考えてしまいます。
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で、なぜ突然、こんな一生懸命に「秘密」について考えているのかといえば、ゲンロンカフェの動画に触発されたこともそうなのですが、先日、Wasei Salon内で開催された、学びのきほんシリーズ『みんなの密教』の読書会を開催したこともかなり大きいと思います。
https://wasei.salon/events/027c2c131dc4
僕はこの本を読み、なおかつ、みなさんと対話する中でふと思ったのは、きっと密教というのは、実は「正しい陰謀論」だったんじゃないか、と思ったんです。
ここでの「正しい陰謀論」というのは、ネガティブな意味合いでよく使われる陰謀論とはちょっと異なります。
そうではなくて、共同体のなかで安心して信じられるある種の「曖昧さ」や「共通の秘密」のことを指しています。
人間は不安定な状態に耐えることが難しく、誰もが何らかの「答え」や「真実」に頼りたくなるもの。
しかし実際には、人間はそれぞれに異なる人生経験、知識量、物語への共感度、データへの信頼度などはバラバラであって、それぞれの価値基準を持っている。
その多様性のなかで完全な共通認識を持つことは、ほぼほぼ不可能です。
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そこで密教のような、「安心して抱えられる曖昧さ」のようなものが必要になったのではないでしょうか。
つまり、全員が明確な答えにたどり着けないとしても、それを問題にせず「わからない問い」をわからないまま受け入れ、共有することが可能となる方法を探った。
そこに「安心して信じられる共通の秘密」が存在していると、お互いに理解や共感を育む土壌となる。それが緩衝材となると言ってもいいかもしれません。
空海は、まさにこの「安心して信じられる秘密」という構造を体系化し、それを全部ひっくるめて理解をして、密教を日本に持ち込んだのではないか、と思ったんですよね。
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で繰り返しますが、「秘密は、自分自身でも完全に把握できない」という点がポイントだと思います。
「語り尽くせないもの」を抱えることは、人間の本質的な特徴でもあり、完全に自己提示や自己開示ができないからこそ、相手に対する敬意や信頼、また相手からの敬意や信頼が、同時にそこに成立する。
その「余白」の部分こそ、人間関係を支える土台があるのかもしれないなと思ったんです。
つまり「密教=正しい陰謀論」という表現で語りたいのは、秘密を持つこと、すべてを語らないこと、ある種の曖昧さや不明瞭さを許容することが、実は人間社会における「共同体」や「公共性」を成立させる重要な要素になるのではないかというのが、今日の僕の仮説であり主張なんです。
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それぞれの秘密があって、その秘密のお互いに尊重し、その秘密も含んだ人間存在への敬意を持つこと、コミュニティ内ではきっと、その能動性が大事になる。
以前もご紹介した、内田樹さんのプライバシーの尊重の話ともつながります。
共同体内の秘密の取り扱い方を誰かが一定に定めてルールのもとに運用するのではなく、聞こえたけれど聞こえなかったふりをする、見えたけれど見えなかったことにするという能動性は、相手の「秘密」を秘密のまま保持しようとする、そんな能動的な態度そのものなわけですから。
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また、ゲンロンカフェの配信の中でも語られていましたが、AIは原理的には秘密や嘘を保持できない。
人間側が、AIと秘密を共有しているお互いの言い過ぎたや言い足りないを、共有しているなんてことは、まずありえなくて。
だとすれば、そのお互いの秘密を抱え込み、包摂する器になれるのは人間だけだよなあ、と思ったんですよね。
そして同時に、そのような空間をこれからの時代においてつくっていくことは本当に大事なのだろうなあと思ったわけです。
それこそまさに非AI的であり、人間だけができるお仕事。
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つまり、この秘密の共有(不)可能性みたいなところ、その器となれるところが人間だけの強みのひとつなのだと思います。
そして、その秘密という漠然とした感覚をお互いに抱きあうことで、きっと人々は共同体をこれまで築いてきた。
それはお互いの間だけに存在する秘密もそうだし、相手の秘密に対して決して無理に立ち入ろうとはしないというケア的な態度、その秘密が秘密であることに対して敬意を示すことによって、お互いの間に立ち現れてくる信頼を担保にしながらつながれる、ということです。
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つまり、信頼と秘密はセット。家族なんてその最たる例だと思います。
言い過ぎてしまったことに対して反応をしすぎない。
また、一方で言い足りなさにおいても、何か言っていないことが明確にあるなと思いながらも、変わらずに共にいること。
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くれぐれも誤解しないで欲しいのは、オープンなSNSにおける自己提示に対して、クローズドの自己開示、その開示範囲を自由に選べるようにしよう!という話じゃないです。
いつだって人間は言いすぎるし、いつだって何かが言い足りない。その中で、相手のその秘密の片鱗それ自体を尊重するということなんです、ここで言いたいことは。
だってそれは本人においても、コントロールできる代物ではないのだから。
そうじゃなくて、「あなたにはあなたの秘密がある」ということをそのまま尊重すること。
本当の公共性とは、そうやってお互いが「隠し持っているもの」に対して敬意を払う関係性に基づいているのかもしれないと。
特にオンラインコミュニティにおいて、相手の語られない部分、語りきれない部分を尊重しつつ、そこにこそ信頼の基盤を見出すことが、これからますます重要になってくるだろうなと思っています。
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今日はあまりうまく書けた自信はないのだけれど、「自分たちの間には秘密なんて何もない」ではなく、自分たちの間にはちゃんと共有されている秘密も、共有されていない秘密も同時にあって、それをお互いがちゃんと保持し続けていようとしている、そんな器としての安心感がある、という状態を目指すこと。
それをルールや規範ではなく、ひとりひとりの強い意志や矜持によって問い続ける、というスタンスが大事なんだろうなあと思います。
それが、「公共性」を構築する一歩であり、お互いの「信頼」や「安心」を生む土台にもなるのだと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。

2025/03/08 20:58