先日、コミュニティプラットフォーム・オシロ代表の杉山さんが書かれていた「同質性の高いコミュニティは、ゆるやかに弱くなる」という記事を読みました。


とっても、素晴らしい記事でした。ぜひみなさんにも読んでみてほしいなあと思います。

スギヤマさんにしてはめずらしく、キャラにもない「断言する」という書き方から始まるのも、ギャップがあって逆に良いなと。

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そして、実際ここに書かれていることは、コミュニティを運営していると、ほんとうに痛いほどよくわかります。

価値観の合う人たちだけでつくられた場は、最初こそ、すごく居心地がいいのだけれども、その心地よさが続きすぎると、だんだんと空気が停滞していってしまう。

具体的には、投稿が減り、会話の幅が狭くなり、「なんとなく全部わかる」という感じが強くなっていく。刺激がなくなる、というよりも、驚き自体がなくなってしまう。

だから、杉山さんが「同質性は入口であって、ゴールではない」と書かれていたのは、本当にその通りだなあと思いました。

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そのうえで、僕はこの記事を読みながら、「たしかにそうだ。でも、たぶん本当にむずかしいのは、さらにその先なんだろうな」とも感じたんですよね。

異質性が必要不可欠だ、という話はとってもよくわかります。

でも、コミュニティの現場で本当に問われるのは、「異質性を取り入れること」そのものでもないような気もしているんです。

むしろ「異質なものが入ってきたときに、その場がちゃんと耐えられるかどうか」。その反脆弱性やレジリエンスのほうがもっと大切なのだと思います。

今日は、そのことについて自分の考えを深めながら少し書いてみたいなあと。

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この点、コミュニティというのは、ほんとうに不思議なものです。

外から見れば、ただ人が集まっているだけのように見える。けれど、内側にはその場特有の「文法」みたいなものがあります。

どんな言葉が好まれるのか。どのくらいの熱量がちょうどいいのか。冗談が通じる範囲はどこまでか。下ネタや性的表現はどこまで踏み込んでOKか、などなど。

あとは、何を言うとメンバーから歓迎されて、何を言うと少し場の空気が凍るのか。

長く続いているコミュニティほど、こうした見えない文法が自然と育っていきます。

それ自体は、決して悪いことではない。むしろ、文法があるからこそ、人は安心して話せるわけですから。

毎回ゼロから「ここでは何をどこまで話していいのだろう」と探らなくて済むわけです。コミュニティに安心安全が必要なのは、そういう意味でも本当に大切なことだと思います。

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ただ、その文法があまりに強くなりすぎると、今度は別のことが起きてくる。

新しく入ってきた人が、その空気に合わせることばかりを覚えてしまう。

すでにいる人たちも、「この感じで話せば大丈夫」という文法の型の中でばかり言葉を選ぶようになる。

すると、表面上はすごく穏やかなのに、実はだんだんと「言えること」が減っていってしまう。

たとえば、以下のような場面はわかりやすい。

誰かが、少しだけ場の空気とズレたことを書き込む。すると、誰も否定はしない。むしろ丁寧に「それも一理ありますよね」と受け止めたりもする。

でも、その話はそこで終わる。深掘りされることもなければ、議論が広がることもない。

ただただ、やわらかく流されていく。

こういうことが繰り返されると、表面上は穏やかなまま、少しずつ「言えること」が減っていってしまうわけです。

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この状態は、外から見るとすごく平和的に見える。平常運転であって、毎日が過ごされているように見えます。

でも内側では、少しずつ場の生命力が失われている状態にあるよなあと思います。

ただし、そのときに起きていることを解決する方法として、単純に「異質性が足りないから」だけで捉えると、少し話が単純になりすぎてしまうような気がするんですよね。

なぜなら、異質性は、そんなに簡単に「いいもの」として現れてくれないからなんです。

異質な人や意見が場に入ってくるとき、それはたいてい、最初は「学び」や「刺激」としてではなく、「居心地の悪さ」もっと言えば「悪玉」としてやってきます。

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話のテンポが違うし、大事にしている前提なんかも全然違う。

こっちでは当然だと思っていたことが、相手にはまったく通じない。あるいは、こちらが大切に守ってきた空気そのものを、相手があっさり相対化してしまったりするわけです。

そういうことは、実際によく起きる。ほんとうに驚くほど、よく起きる。

異質性という言葉だけを見ると、なんだか新しい風が吹いてくるような、前向きで洗練された印象があるけれど、現場での異質性というのは、なんというか、もっともっと生々しいし、厄介なもの。

その異質さは面倒くさいし、疲れるし、場合によっては「この人が入ってきてから、なんだか話しづらくなってしまったな…」と感じることさえあります。

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つまり、異質性は、最初は「ありがたいもの」としてではなく、「ちょっと困るもの」として現れるわけです。まさに寅さんみたいに。ここを決して取り違えちゃいけない。

ここを飛ばして、「だから異質性を入れましょう!」とだけ言ってしまうと、どうしても少し「きれいごと」になってしまいます。

本当に大事なのは、異質性を称賛することではない。

異質なものが現れたときに、それをすぐに排除や断罪に変えないための作法を保てているかどうかなのだと思います。

もっと言えば、コミュニティに必要なのは、多様性そのものよりも、「多様性を扱う文化」がちゃんと浸透していることなのかもしれないなあとさえ思います。

ここが今日、いちばん強く強調したいポイントです。

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具体的には、自分と違う意見が出たときに、すぐに決めつけないこと。

違和感が生じたときに、それを即座に相手の人格の問題や育ちの問題に帰結させてしまわないこと。一方で、何でもかんでも許容することを成熟だと勘違いもしてしまわないこと。

このズレは、場を豊かにするズレなのか、それとも誰かを傷つけて黙らせるズレなのかを、それをできるだけ丁寧に見分けることが大事。

しかも厄介なことはは、そのズレが良かったのか、悪かったのかは、その瞬間には簡単にはわからないことです。

あとから振り返って、初めて見えてくることも多い。というか、ほとんどの場合がそう。万事塞翁が馬、なわけです。

さらに、塞翁が馬だからこそ、どこまでいっても、いつまでたっても、その意味は確定しない。

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コミュニティが本当に成熟するかどうかは、たぶんこういう地味な部分で決まると僕は本気で思っています。

ただ異質な人を呼ぶだけでは足りない。
ただ異なる本を読むだけでも足りない。

その異物によって空気が揺れたときに、場として、どんな反応をするのか。そこに、その共同体の本当の力が宿るはず。

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そして、この話をさらにむずかしくしているのは、コミュニティには大抵の場合、主宰者や運営者の「好み」が深く染み込んでしまっているということでもあります。

具体的には、どんな言葉遣いが歓迎されるのか。どんな態度が「感じがいい」とされるのか。

どんな違和感なら「面白い視点」として扱われ、どんな違和感は「空気を壊すもの」として処理されるのか。

こういう基準は、明文化されていなくても、場には確実に存在しています。

そして多くの場合、それは主宰者の感覚とかなり深く結びついている。(書きながら、自分自身の耳も相当に痛いけれど、でもほんとうに書かないといけないことだから、勇気を持って書き続けたいと思います。)

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だから、「異質性を受け入れよう」という話をするとき、本当は主宰者こそが一番きつい問いを引き受けなければならないのだと思います。

それは「自分は、自分に都合のいい異質性だけを歓迎していないか」という問いです。

これはかなり痛烈な問いなんです、本当に。

自分の価値観を完全に否定してくる人を歓迎できるか、というような極端な話でもありません。

そうではなくて、自分が思わず「いや、それはちょっと違うだろう…」と感じたとき、その感覚をいったん脇に置きながら、考えることができるか。

自分にとって耳ざわりのいい多様な意見だけを「多様性」と呼んでいないか。

同様に、場を活性化させるためのスパイスとしてだけ「異質性」を都合よく消費していないか。

たぶん、ここにコミュニティ運営の核心があると信じています。

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コミュニティが弱くなるのは、刺激がなくなるからだけではない。もっと怖いのは、「自分たちの正しさを疑えなくなること」なのだと思います。

本当に強いコミュニティというのは、単に傷つかない場ではないのだと思います。

違和感やズレや、ちょっとした緊張が生まれたときに、それを即座に排除や断罪に変えず、関係性を保ったまま考え続けられる場かどうか。

それこそがまさに反脆弱性だし、レジリエンスそのもの。

それは、運営テクニックみたいなものだけでは絶対につくれません。文化や思想的側面のほうが圧倒的に大事になってくる。

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また、日々の声がけや、見えない配慮や、失敗したときのリカバリーの積み重ねでしかそれらは育たない。

そして、主宰者自身が、自分の正しさを絶対視しないこと、そこからしかすべては始まらない。

異質性を取り入れれば、それだけでコミュニティが豊かになるわけでもない。それはいつだってあちら側からやってくる「マレビト」であることは間違いないのだけれど、それは神なのか、死神なのかは誰にもわからない。

まさに、神のみぞ知ることです。

だからこそ大事なことは、そのあいだにある、とても面倒で、うざったくて、とても人間的な営みや習慣、まさに儀式のほうなのだと思います。

そのある種の緊張感のなかで、問い続けること。関係を切らずに、人間らしく揺れ続けること。

たぶんコミュニティの強さというのは、そういうところに宿るのだろうと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。