昔から思っていることのひとつに、クラウドファンディングって、もっと「現物出資」や「現物寄付」ができたらいいのになあと思っています。

たとえば、家の中にあるいらないモノ(洋服や本、ゲームや家電類)を主催者に送って、それをセカストのようなセカンドハンドショップなんかでまとめて売却すれば、思ったより大きな金額になるんじゃないのかなあと。

もし仮に、ひとりひとりの売却額がたとえば500円程度だったとしても、それを100人がまとめて出せば5万円になるわけで。チリも積もれば、けっこう額も大きくなると思います。

僕の幼馴染に、セカストの店長をやっている友人がいて、彼から頻繁に「セカンドハンド市場が今どれくらい盛りあがっているか」とか「こんなものが、この値段で売れちゃうんだ」という話を聞かせてもらっていて、その話を聞くたびに、いつも本当にびっくりさせられます。

実際、その相場を聞くとバカにならないなあと。先日見たニュースだと、過去10年でセカンドハンド市場は2倍の規模にもなっているそうです。

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で、こうやって、仲のいい人がクラファンを立ち上げるたびに、各自が家の中の「なくても困らないもの」を断捨離して、それを支援にしてもらう仕組みがあったら、一石二鳥じゃないかと思うんですよね。

不要品も片付くし、集まったものを売却すれば、それなりにまとまった金額が集まる。

もちろん個々人だけで考えると、手数料や発送の手間などを諸々勘案して、二の足を踏むこともあるだろうけど、それをコミュニティ単位で行えば、そこに祭り感だったり、「目的性」みたいなものも生まれてきて、たとえプラマイゼロであっても、そこには「支援」の輪が広がるはずで。

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で、この話を踏まえて、今日このブログの中で僕が改めて問い直してみたいのは、クラウドファンディングの真の意義みたいなところ。

この点、多くの人が考える「クラウドファンディング」は、不特定多数から現金を募ることがその主な目的であるはずです。

確かに、それが大勢にとって一番わかりやすい形態ではあるけれど、本来の趣旨目的って「一緒に支え合って、プロジェクトを成功させよう」とか「応援し合おう」ってところにあったはずなんですよね。

ひとりでは不可能でも、小さく支え合えば、夢も実現できるんだと。

そう考えると、仏教の「無財の七施」じゃないけれど、別にお金だけが出資の形じゃなくてもいいと僕は思うのです。むしろ「現金以外」で支援したほうが、その応援にこもる“温度感”も伝わりやすい気もしています。

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とはいえ、必ずみなさんの頭の中に浮かんでいるのは、被災地に毎回送られてくる千羽鶴のような話。あとは、ゴミになる衣服。そんなふうに相手目線のないものは、邪魔なだけだと。

でも、だからといって、現物出資そのもが間違っているわけじゃない。

あの被災地の実態が僕らに教えてくれているのは、文化や価値観がズレているひとたちからの贈り物は、逆に迷惑になるだけだという現実であって。

僕がここで言いたいのは、こういう「与える」という感覚を、もう一度見直すタイミングが、このコミュニティ時代においては再び来ているのではないかということです。

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別にお金が必要なら、銀行から融資を受ければいい。実際、地方での実業なら、金余りの状態なわけですから、地銀や信用金庫だってドンドン貸したいと思っているはずで。

それが、フランチャイズなどが今流行っている大きな理由でもあると思います。店舗を出すなら適当に事業計画を作れば、簡単にお金を借りられる。

逆に、2010年代は実態がないビジネスが主流になって、そこにビジネスチャンスがあった。

でも、レガシーの銀行はそこにはお金を貸さなかった。だから、成功するかどうかわからないネットを絡めたチャレンジだからこそ、現金を集めるクラウドファンディングも使う価値もあったんだと思います。

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でも今は、もうそういう時代でもない。

だとすれば、本来のいちばん大事なのは「勇気づけ」なんだと思うですよね。

これだけの人が「少しでも手助けしようとしてくれているんだ」と実感できること、それが他のお客さんにも見えて「この人は信頼に値する」という広告効果を、そこにもたらすこと。

そういう意味では、極端な話、署名一つと、10万円の現金支援は本来「等価」であっても、まったくおかしくないとさえ感じます。

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で、今日この話に関連して、ここでご紹介したいのはエーリッヒ・フロムの名著『愛するということ』。」Wasei Salonの中でも以前、読書会を開催したことがあります。

最近、僕は改めてこの本を読み返していて、フロムは、この本の中で「愛は能動的な活動であり、与えることそのものが愛の中心的行為だ」と説いています。

受け身で何かを得ようとするんじゃなくて、自分から能動的に“踏み込み、与える”ことが愛の本質なんだ、と。
  
じゃあ、その「与える」とはどういうことなのか。

「この疑問に対する答えは単純そうに思われるが、じつはとても曖昧で複雑である」とフロムは書いていました。

いちばん広く浸透している誤解は、与えるとは、何かを「あきらめる」こと、剝ぎとられること、犠牲にすること、という思いこみであるのだ、と。
  
いっぽう、与えることは、犠牲を払うことだから美徳である、と考えている人も世の中には多数存在している。

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でもフロムは、どちらもハッキリと間違っていると言います。そして本当の「与える」という行為は、「もっと豊かで、自分の生命力の表現になる」と書いているんですよね。

以下で本書から少し引用してみたいと思います。

生産的な性格の人にとっては、与えることはまったくちがった意味をもつ。彼らにとって、与えることは、自分のもてる力のもっとも高度な表現である。与えるというまさにその行為を通じて、私は自分のもてる力と豊かさを実感する。この生命力と能力の高まりに、私は喜びをおぼえる。与えることはもらうよりも喜ばしい。それは剝ぎとられるからではなく、与えるという行為が自分の生命力の表現だからである。


これは本当にそう思います。心から同意します。

ここにあるように、「与える」って何かを損なう行為ではなく、自分の“生命力”や“豊かさ”を表現する行為であるはずなのです。

だからこそフロムは、「与えることは、もらうよりも喜ばしい」って言いきっているわけなんですよね。

これをクラファンの話に置きかえてみると、「現物出資」がただの経済活動にとどまらず、実は応援者の“愛”や“信頼”を形にする行為になり得るんじゃないかと思うわけです。

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繰り返しますが、僕は、クラファンの主目的を「資金調達」に固定してしまうのはもったいないと思う。

取引だけじゃなくて「助け合い」や「応援」の感情があるからこそ、主催者は勇気づけられ、一歩踏み出す気力にもつながるんだと思います。

言い換えると、その踏み出す勇気を与え合うための効果”も”同時に含んでいるのがクラファンの本質。

もちろんプロジェクトを続けるためには、お金が必要だけど、「持ち寄って支える」「与えることで共に盛り上げていく」というコミュニティ的な側面を見直したら、もっともっとより本質的なものになるような気がしています。

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そのときに、みんなで家の中を整理して、出てきたモノを「現物出資」で出し合い、それが形を変えてプロジェクトに貢献してみる。

それって、まさにフロムの言う「愛は与える行為である」という思想の実践にもつながると思うんですよね。

送る手間や仕分けの手間が多少かかったとしても、それをコミュニティで協力してやれば、そこに連帯が生まれるし、結果的にプロジェクトの成功確率も上がるんじゃないだろうかと。

自分が少しでも関わったと思える、あのお店の成功が、自分のひとつの成功や自尊心につながる。そう思ってもらえるひとが、一体世の中にどれぐらい存在しているかが、大きな成功要因のひとつにもつながるわけだから。

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お金が集まるかどうかだけではなく、「誰かの挑戦にどれだけの人が賛同して、力を貸そうとしてくれているか」という事実こそが、人々をエンパワメントしていく。

そこにはまさに「与える」精神の尊さも詰まっていて、そんな「与える」行為の価値をもう一度問い直してみる時期なのではないかというのが、今日の僕の主張です。

「不特定多数」からお金を集めるような従来のプラットフォーム型のクラファンと、「特定多数」からお金と応援、そして勇気づけを集めるようなコミュニティ型のクラファンはきっと完全に似て非なるもの。

もちろん、ここにはトークンが絡んでくる余地も十分にあると思っています。

そのあたりが変化してくると、クラファンという近年には完全に一般的になって、ただの先行受注に成り下がり、目新しさも失せてしまった仕組みが、また再び息を吹き返す様になるのではないかなと。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。