マルクス・アウレリウスの『自省録』のオーディオブックを、何度も何度も繰り返し聴いていると毎回違う話が刺さるという話を先日書きました。
ただ、それでも必ず毎回同じところにドキッとして、同じように刺さる部分があります。
それがどんな一文かと言えば、以下の一文になります。
「善い人間のあり方如何について論ずるのはもういい加減で切り上げて、善い人間になったらどうだ。」
この一文に到達するたびに、毎回頭をガツンと殴られたような気持ちになる。
一応、誤解されないように書いておくと、マルクス・アウレリウスの『自省録』という本は、タイトルの通りマルクス・アウレリウスが自分のために書いてあった日記のような文章です。
つまり、人に読まれることを前提としていない、自分に言い聞かさせるための内容です。
当然この一文も、彼が自分自身に向けて書いている文章でもあるわけです。
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で、この文章が耳や目に入ってくるたびに、僕は「そうなんだよ。本当にそのとおり!」と思わされてしまう。
なぜなら、自分自身も全くそれができていないからです。
でもいい加減、それを果たそうとしたらどうだ?と思うんですよね。
言い換えると、理論よりも実践することのほうが大切であって、その実践する場と、その場に立ちあらわれる「循環」のほうが大事だと思っていて、それを実際に実現したくて、コミュニティ運営をし続けている感覚が強くあります。
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じゃあ、具体的に善い人間としての実践として、どんなことを実践する場が必要なのか。
それが「ビックピクチャーとスモールピクチャー」という視点に立つとわかりやすいなあと感じています。
これは『人を動かす2』というデール・カーネギーの名著『人を動かす』の現代版にアップデートされている本の中に出てくる内容で、「スモールピクチャー思考」というお話から借りている言葉になります。
本の中では、アメリカでタクシー運転手が、タクシーの中に忘れた携帯電話を、遠く離れた場所まで、気前よく笑顔で運んでくれたこと、その時に運転手は、お金の話も一切しなかったという話から始まるのですが、この他人をちょっと幸せにするようなことが、スモールピクチャー思考であると、著者は書いています。
本書から少しだけ引用してみたいと思います。
私たちは人生のどこかで、常にビッグ・ピクチャーを心に抱くようにと教えられてきた。大きな目標を立て、大物たちと交流し、大仕事を果たすことの値打ちを学んできた。今日では大フォロワーの獲得も、ひとつのビッグ・ピクチャーかもしれない。ビッグ・ピクチャーは価値あるものだ。だが、大きな成果をあげることしか頭にないと、小さな機会を見落としてしまうだろう。やがて大きな違いをもたらすかもしれない小さな機会を。つき合いを少し深めるチャンス、絆を少し強くするチャンス、この人と出会って本当によかったと思ってもらえるようなチャンスを見逃してしまう。
これは本当にそう思います。
だからこそ、ビックピクチャーのような大言壮語ではなく「少しでも目の前の人の1日がいい日になるように」そうやって祈りを込められるような小さな意義深いことを実践する場、それがものすごく大事だと思うんですよね。
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この点、僕らはすぐに手段を目的化してしまう。じゃあ、その目的が実現できたら、何をしようと企んでいるのかと言えば、それはきっと、今よりもっと家族や目の前のひとを大切にするとか、子供との時間を大切にするとか、ぐるっと一周まわったようなことを言い始める。
だったら、今この瞬間から少しずつでも始めたらいい。
これはきっとおのじさんとも先日Voicy内で対話した「真の共同性と目的性」の話にもつながると思うのです。
つまり、ビックピクチャーが目的性、そしてスモールピクチャーが共同性にあたります。
そして、目的性がまだ達成されていないことを、共同性を実践しないことの言い訳にしてしまう。
でも、それが大事だと思っているんだったら、今すぐに始められることでもある。
共同性(スモールピクチャー)と目的性(ビッグピクチャー)は対立するものではなく、相互に支え合うものなのだと思います。
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とはいえ、なかなかにその実行がむずかしい。
なぜなら、そのような行為は評価されにくいから。他者から気づかれないから。
だとしたら、それをお互いに言祝ぐことをしていこうよ!って思うんですよね。
もっと言うなら、お互いの「スモールピクチャー」を丁寧に受け取り合っていこう。きっと実践の肝はこちら側にあるはず。
些細なことなんだから、やってもらって当然という態度で受け流して、メディアで見かける赤の他人のビックピクチャーのほうに夢中になるのではなく、同じコミュニティのメンバーに対して、その心遣いに対して「ありがとう」「感謝する」「助かるよ」と言葉だけではなく、お互いに態度やつながりで表現をし合うような空間。
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その文化が広がることで、大きな目的を同時に共有しながらも、日々の行動を大切にする共同体が生まれてくるんじゃないのかなあって。
そのためには、コミュニティ内に何千人、何万人って必要になるわけではないはずなんですよね。
それよりも、ちゃんとそこでスモールピクチャー思考が「循環」していることのほうがきっと重要で。
誰かのスモールピクチャーが、また他の誰かの人生を少しでも着実に豊かにしたという実感が持てる形において、ぐるぐると循環していることが重要なんでしょうね。
つまり、スモールピクチャーの実行者、その受益者、あとはその贈与自体を観測し見守ってくれる人々、その三つ巴構造さえ、そこに存在していればいい。
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で、僕らは直感的に感じ取っているんだと思うのです。
ビックピクチャーを追わないと、スモールピクチャーが立ちあらわれてこないんじゃないか、と。
これは言い換えれば、全ての共同性を劣後においた目的制の追求をしない限りは、真の共同性は立ちあらわれては来ないという、あの話にもつながる。
それは、何度も繰り返すように、実際その通りなんです。
それゆえに、そんな漠然とした実感があるから、まずはマルクス・アウレリウスの言う「善い人」になるよりも「ずるい人、賢い人」になろうとする。
そしてビックピクチャーの成功を祈願する。
でも、そのずるい人、賢い人を経由して、ビックピクチャーという目的性が全て仮に達成されたとして、世界征服でもできた暁には、じゃあ何をしようとするのか。
その時にはみんな、善い人として振る舞えるような環境やコミュニティ、世界を望んでいるはずなんですよね。
言い換えると、善い人になりたいからこそ、目的性を過度に追求するために、悪い人にも進んで成り下がる。
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それはこの社会に生きている以上、仕方のないことだと思います。
でも同時に、それは確かな共同性の上に成り立っていることでもあるわけですよね。
それゆえに、スモールピクチャーを丁寧に、今目の前で起きていることを実践し合い、言祝ぐことができる関係性を同時につくっていきたいなあと思うわけです。
たとえば『葬送のフリーレン』という漫画は、魔王討伐という圧倒的な目的性とその中で立ちあらわれてくるパーティー内の共同性、さらにその後の共同性の循環やペイフォーワードを描いた作品であって、このあたりのジレンマを本当にとても上手に描いているなあと思わされます。
僕らは、どれだけ頑張っても求めている未来それ自体には、決して手が届かない。届いたと思った瞬間に、また次の夢や目標が生まれてきて、一生それを追い続けさせられながら、生きることになる。
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これは、何の本にかかれてあった話かすぐには思い出せないのだけれど、「いついかなるとき、どこにいる場合であっても、全身全霊でそこにいなさい。」と。
このスタンスなんだと思うんですよね、本当に大事なことは。
だから、どれだけ「そんなちんけなことを」と思っても、スモールピクチャーをお互いに実践し合う、それが大事なんだと。
お互いのスモールピクチャーの実践に対して気づき合える、その文化づくりが重要だということを伝えていきたい。
「たとえ明日、世界が滅びようとも、今日私はリンゴの木を植える。」という話ではないのですが、そのような目の前のスモールピクチャーの実践が、結果的に「大きな大きなりんごの木」につながっていくと思いますし、それこそが一周回って今とっても大事なことだよね、と僕は思っています。
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ある意味では、ものすごく矛盾していることを言っているようにも聞こえてしまうだろうし「結局のところ、目的生と共同性、一体どっちなんだよ!」と思われてしまったかもしれないのですが、このあたりの微妙なニュアンスがうまく伝わると良いなあと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。