「怒り」は他者への期待と、その期待を生み出している無意識の固定観念から生まれてくるもの。


だから、他者には期待をせず、その無意識の固定観念の正体を明らかにしていけば、自然と怒りをコントロールできるようになる。

何度もこのブログに書いてきた話です。

参照:怒らなければ、うまくいく。 http://inkyodanshi21.com/blog/12939/

https://wasei.salon/blogs/552effd0751d

でも、やっぱりこの話は素直には受け入れてもらえません。

「他者に期待しない」ということは、どうしても冷たく感じてしまうのでしょう。


それだけ人間にとって「期待するな」は受け入れ難い事実なのだと思います。

自分も「ドライに聞こえるかもしれないですが〜」と前置きをしてから、必ずこの話をするようにしています。

ではなぜ、人は他者に期待しないことをドライだ(冷たい)と感じてしまうのでしょうか?

今日はそんなことについて、少し考えてみたいと思います。

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思うに、自分が他者に向ける期待の矢印よりも、自分に向けられる期待の矢印を考えたほうが、この点についてはわかりやすいかと思います。

「自分→相手」に向ける期待ではなく、

「相手→自分」に向けられる期待で一度考えてみるのです。

そうすれば、この他者が誰であったとしても(友人、同僚、社会など)「この自分に向けられた期待」の矢印は、なんとなく高揚感があるはずなんです。

つまり、至極当たりまえなことではあるのですが、人間は他者から期待されると「嬉しい」のです。

これはとても大事な前提だと思います。

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では、なぜ人間は他者から期待されると嬉しいと感じるようになっているのでしょうか。

これはきっと、生まれた瞬間まで遡って考えてみればわかりやすいかと思います。

幼いころ、自分の物心がつくまえから僕たちは、必ず親に何かしら期待をされて育ってきました。

そして、自分がその親の期待に応えられるかどうか、それで目の前の相手(親)が喜んでくれるかどうかが決まる。

そうやって、この世界と繋がり始めたわけです。

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つまり、何ひとつ自分でこなすことができない自分に対して、全てにおいて無償の愛で期待してくれる両親、その期待に応えることで彼らが喜んでくれる姿が見られる、それが自分自身の最初の生きがいであり、生きる意味になったはずなのです。

それを今の今までずーっと引きずっている。

なんなら死ぬ瞬間まで、それを引きずり続ける、それが人間なのだと思います。

ネタバレになってしまうので、細かいシーンまでは言及しませんが、映画『鬼滅の刃 無限列車編』がこれだけ日本全国で流行っていることが、それをまざまざと証明しているかと思います。

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つまり、「期待しない」ことをドライだと感じてしまい受け入れ難いと感じてしまうその理由は、親の「無償の愛」が原因であり、親と自分の関係性にその起点が存在するのです。


何も代償を求めない「無償の愛」に支えられて育てられてきたからこそ、人は「期待する」ことが善であり、この関係性を他者との間でも再現しようとしてしまうのではないか。


それが僕の仮説です。

なぜならそれが、この世界に生まれてきて初めて感じた喜びだから、です。

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誰一人として、大人で生まれてくる人間はいません。

最初はみんな赤ん坊でした。

つまり、この体験をしていない人間なんて、この世には存在しないんですよね。

誰もが「育ての親と子供(自分)の関係性」を体験し、それを必死で再現しようとしているのです。

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ここまで考えてくると、「期待」の正体を客観的に捉えられるようになり、なんとなく解放されていく感覚があるのではないでしょうか。

親との関係性及び、そこで与えてもらえた「無償の愛」に対しては最大限の感謝をしつつ、

それを他者との関係性(コミュニケーション)の中には持ち込まない。


 もちろん「親から期待されなくなって寂しかった、だから他者に期待してしまう」も同様です。


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このことが理解できるようになる、それが本当の意味で大人になるということであり、「成熟する」ということなのかもしれません。

逆の視点から捉えれば、まわりに対していつも怒っている人を見つけたら、そのひとの人生の時間をどんどん逆回し再生してみて、子供時代まで遡り、親の期待に必死で応えようとしているその人の姿までを想像してみる。

そうすると、自然とその傍若無人な態度に対しても、理解し許容できるようになるかと思います。

今日のお話がいつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても、何かしらの参考となったら幸いです。