誰かが何かをぞんざいに扱っているときにヒヤヒヤしたり、モヤモヤしたりすることって誰しも一度は経験したことがある感覚だと思います。

そのように反応してしまうのは、そのものの価値を自分が知っているからです。

この「私はその価値を知っている」という思い込みが、価値観がドンドン急速に変化している現代においては非常に厄介であり、取り扱い注意な感情だと思うのです。

今日はそんなお話を少しだけ。

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たとえば、貴重な茶器なんかはとてもわかりやすい。

茶器に興味がないひとにとっては、何の変哲もないただの器でしかないかもしれないけれど、それが数億円する価値のあるものだとあなたが知っていたならば、目の前の相手がぞんざいに扱っていることに、きっと居ても立っても居られないはず。

そして、必ず何かしらにおいて、その扱い方に対して口出ししてしまうことでしょう。

これと同じことが、いま世間で広く行われていると思うのです。そして、マイノリティの人々を苦しめる原因にもなっている。

まず素直に認めなければいけないことは、僕らはどうしても自分が「価値ある」と思うものを無碍に扱われることが我慢ならないのです。

「そんなに貴重なものを持っているのに、なんで…!」ってなる。

それはもしかしたら、私が欲しくて欲しくてたまらなかったものだからなのかもしれません。ついつい「宝の持ち腐れ」のように感じてしまう。

基本的には、この「せっかく持っているのに、もったいない」という感覚がありとあらゆる場所で人々を苦しめる原因となってしまっている。

年代ごとに、価値観が大きく異なる場合が多いからこそ、親や子供のようにハッキリと世代が異なれば、余計な口出しも増えてしまうのは当然のことなのでしょう。

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この点、物質の場合はその所有権をうつしてしまえばいい。相手から直接買い取ることもできでしょう。

上述した茶器の例で言えば、あなたにとって非常に価値あるものであれば、その茶器を相手から譲ってもらうこともできる。

しかし、譲ってもらうことができないもの、持っている本人から切り離せないものだってこの世にはたくさんあります。

そのときに、ついつい口出ししてしまいたくなってしまうのが人情なのだと思います。

ここでグッと堪えらることができるかどうか。

そしてまずは、私にはそれを価値だと感じる素養があるのだと理解すること。そうすると、自分の中に存在する固定観念を発見することにも繋がるのかもしれません。

なぜ茶器に価値があるのかと言えば、過去にそのような価値が誕生して、その共同幻想を信じているひとたちが現代にも一定数存在しているからですよね。

でもやっぱりどんな茶器であろうと、究極的には土の塊でしかない。そして、それが「空(くう)」であるということも理解できるかもしれない。

つまり、目の前のひとがぞんざいに扱う姿は、自分がそこに違和感を感じてしまうその原因(構造)を深堀りする大きなチャンスだともいえるわけです。

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大事なことは、自分の中で大事にしたい価値(観)は、絶対に他者に強要することはできないと理解すること。そして、相手から私に対しての急迫不正の侵害がないなのであれば、それは自分には一切関係ない。徹頭徹尾、他者の課題なんです。

相手が持っているものの価値を「情報」として伝えることまでしか私にはできない。それを最終的に本人がどう扱おうと、本人の自由です。

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むしろ私にとって大事なことは、目の前で繰り広げられているその光景や経験を通して「私とは何か」をもう一歩深堀りする機会にすることができるかどうか。

今日のお話は、言うは易し行うは難しではありますが、現代を生きるうえでとっても大事な心がけだと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。