最近読み終えた精神科医・松本俊彦さんの『身近な薬物のはなし──タバコ・カフェイン・酒・くすり』。
今度、Wasei Salonの中で読書会も開催する予定です。
https://wasei.salon/events/d0a4199b7fd1
先日Voicyで公開したプレミアム配信のロングインタビュー企画の中でも話しましたが、なぜいま「身近な薬物」の話を考える必要があるのかを、今日はこのブログの中で少し深めてみたいなと思います。
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まずこの点、僕らはいつだって「身近な何か」に対して依存をしている。
その代表例が、ここであげられているような身近な薬物たちだと思います。この4つの項目、そのどれにも一度もハマったことがないという現代人はほとんどいないかと思います。
で、大事なことは、この身近な”薬物”を単純に否定することも違うし、開き直ってそこに完全にアディクトしてしまうことも違う。
そうじゃなくて、そんな身近な薬物とちゃんと向き合って、再出発する勇気が大切である、それをわかりやすく描いてくれていることが、この本の大きな特徴だなと僕は思いました。
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じゃあ、それは具体的には一体どういうことか。
この点、松本俊彦さんの専門分野から本当に身体に対して作用を及ぼす薬物が並べられていますが、そこで共通して描かれている視点があります。
それぞれの薬物に対して、なぜ人間はアディクトしてしまうのかを医学的に解き明かしつつ、なぜそれが歴史的、そして世界の中でも合法的に受け入れられていったのかをそれぞれの項目ごとに、丁寧に読み解いてくれています。
つまり、人間が何かに依存していく過程(しかもそれは個人・社会どっちも)かつその歴史的背景も踏まえた「構造」それ自体を知ることができるように描かれてある。
たとえば、以下は人類の薬物を受け入れるときのお決まりのパターンを、わかりやすく言語化して伝えてくれている部分になります。本文から直接引用してみます。
人類がある薬物を受け容れる際には、お決まりの順番というものがあります。最初は、 宗教的な儀式に際しての神器として、そして後には、病気を治し、心身の疲労を癒す医薬品として用いられます。けれども最終的には、日々の生活に喜びと潤いをもたらす嗜好品として、庶民の生活に深く根を下ろすよう になるのです。人々は薬物を介して互いに交流し、心の垣根を外してつながりを築き、絆を深め、外敵へと立ち向かうのに欠かせない連帯感を育みます。
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これはなんだかとても納得感のある話ですよね。
で、僕はこの本を読みながら、薬物に限らず、現代における「SNS」や「ペット」もまったく同じだなと思いながら読んでしまいました。
もちろん、言わずもがな「スマホ」なんてその最たるもの。
で、そんなありとあらゆる身近な「薬物じみたもの」の取り扱い方に、僕ら現代人はものすごく悩み、迷ってしまっている。
つまりいつも書いているように、剥き出し欲望側に振り切るタイプと、バキバキに鎧で守る側と、もう完全に分断し、両者ともに開き直ってしまっている。
でも、どっちもきっと違うんだと思うのです。その塩梅が重要なわけですよね。
で、さらにその塩梅というのは「程度問題」だと僕は思っていました。でも、最近はそれもちょっと違うのだと思い始めた。
それだと、どうしても科学的な話になりがちで。
つまり、程度問題だとその安定点を見つけるような作業となり、小数点以下の単位で微調整していくように、余計に科学的な視点が介入してくる。
でも本当はそうじゃなくて、一旦「アディクトしてしまう自分」を受け入れたうえでの再出発が大事。
うまい喩えが見つからないけれど、本当の意味での「白湯」みたいな話です。一旦沸騰させてから、冷めたときのちょうどいい温度が白湯にとっては大事だみたいな話。
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で、昨日Voicyの通常回で配信したおのじさんがゲスト回の「物語」にまつわる話は、まさに現代の「薬物じみたもの」のひとつに含まれるなと思います。
人間にとって「物語」というモノほど、危ういものはない。
用法・用量正しく守って扱う必要があるもの、それが物語です。
薬物の最終形態というか、いちばん僕らが依存しているもの。
それがあまりにも当たり前すぎて、空気のように存在しすぎて依存していることさえ気づけないものが、物語。
最近だと、その危険性を見事に描いてみせたのが、朝井リョウさんの新作小説『イン・ザ・メガチャーチ』だと思います。
でも、そうやって気づかないぐらいに物語にアディクトしてしまうということは、そもそも、僕らは物語なしでは生きられないという証でもある。
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だからこそ、安易な物語批判も、同時によろしくないなと僕は思うのです。
これだけ物語化による功罪、その罪の部分が際立ってくると、物語は良くないという声も大きくなる。
でも、たとえそのひとたちの主張通り、物語なしで生きられるとしても、生きることに対する彩りが完全に消失した白黒の世界となる。
だとすれば本当に大切なことは、物語の功罪との向き合い方、そこからの再出発であるはずです。もともと人類の共同体には必要不可欠なものなわけだから。
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あと、これは完全に余談ですが、三宅香帆さんの新刊『考察する若者たち』に描かれているように、現代の若者たちが考察文化を過剰に重んじることも、まさにここに原因があると思っています。
つまり、これも物語とどう向き合うのか、そこに現代の若者たちの葛藤が如実に存在しているということでもある。
そして、考察よりも批評が正解という一般的な意見もごもっとも。でも若者たちの「報われたい」欲としての現代的な付き合い方においては、「考察」に流れてしまうのも至極当然であるということが、この本を読んでいるとすごくよくわかります。
つまり、この話も「薬物」の話とすごく似ているなあと思います。
僕ら現代人は今、物語という「薬物」との向き合い方に完全に悩んでしまっている。
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なので、三宅さんの新刊を読みながら僕はなんだかお酒の飲み方、宴席の立ち振舞の仕方みたいな話をしているなと思いながら、読んでしまいました。
昭和ストロング的な酒の飲み方が「批評」であり、令和ケア文脈での酒の飲み方が「考察」文化。
で、そんな考察的な酒の飲み方していても、酒の本質なんて決してわかんないよ!ということだと思うし、一方でそうやって身を滅ぼしてきたのが昭和世代だろう、という令和の若者たちの冷ややかな目線もある。
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だからこそ、僕は考察せざるを得ない若者たちの苦悩、そこにもっとちゃんと寄り添いたいなと思います。
とはいえ、考察するための作品をつくって若者たちを慰めるのも違うと思う。
当然ここに、正解なんてない。人類にとっての「酒の飲み方」なんかにまったく正解がないように、です。
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だとしたら、世間があてがってくる「正解」によって報われようとするんじゃなくて、自分で自分を救うしかない。
その腹落ち感のほうが大切。
具体的には、物語を消費するのではなく、物語りたいと願う私、物語る私と向き合うほかないということです。
誰にも知られたくないことや、向き合うことからずっと目を背けてきたトラウマ的ななにかも含めて、そんな「秘密」も通した物語る自己の再出発。
そこに自分なりの最適解を探していく過程こそが重要だということなんでしょうね。
それが、僕がいつも語る「裏の裏」や「弔い」の意味です。
そこに自己の納得感と、自己の救いを自分の力で見出していくほかないのだと思うのです。
つまり、徹頭徹尾、自己との向き合い方の問題であって、客観や社会、世間のほうに正解や答えがあるわけではないということです。
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でも、ここで完全に矛盾するようなことを主張しますが、だからこそ同時にコミュニティが必須だと僕は思っています。
「ただ、黙って共にいる」という他者の存在が逆説的に必ず必要となる。
そして、僕がいちばん他の人々と明らかに意見が異なる点はここだなと思っています。
この点「自立とは、依存先を増やすこと」と語るひとは多い。
基本的にコミュニティや中間共同体の重要性は、そのようなケア文脈で語られる場合がほとんどです。
でも、それは明らかに違うと僕は思います。このあたりは本当に面倒くさくてごめんなさい、っていつも思います。
自分で自分の物語を物語るためにこそ、僕はコミュニティが必要不可欠だと言いたい。
ただ黙って共にいる態度、お互いの見守る態度があるからこそひとは、本当の意味で、物語る自分と本当の意味で出会えるはずんですよね。
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つまり、依存状態を「社会的な正しさ」の方向へと無条件に治療しようともせず、一方でその依存状態をビジネス文脈において悪用しないでもいてくれる存在。
そうやって、ただただ黙って、共にいてくれる存在が必要不可欠。
なぜなら、治療によって自立や独立ばかりを煽られても、むしろ焦るばかりだから。焦れば焦るほど、誰かの「正解」をなぞるだけになってしまう。
一方で、ケアばかりされたりすることも違う。それこそ依存先が増えるだけで、そこにもやっぱり安易な他力本願が必ず顔を覗かせてしまう。
本当はもっと時間をかけて、自分にとって腑に落としながら、自分のペースで歩むことが何よりも大切。
そして、これこそが僕は本当の意味での「絶対他力」の思想だとも思っています。
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このような共に歩む姿勢は、時間がかかる。単発のイベントや短期間の連続セミナー形式の講義や対話会のような場では決して不可能なこと。
一方で、大きな物語に巻き込んでいくタイプの、エンタメや推し活、宗教型の集団でも不可能なこと。むしろ、そんなことをすればするほど、人はドンドンと孤独を感じ、実際に内面的には孤立していく。
いつも語っている「喫茶去」のような的な働きかけじゃない限り「自分で自分の物語を本当の意味で語りなおす」という再出発はできないと思います。
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この部分の価値を僕は改めて見直したい。そのために必要なコミュニティを耕し続けたい。
裏の裏から再出発するときに、「自ら物語る力」が立ち上がってくる。そのとき、自己の内側から「絶対他力」のような思想も、同時に生まれてくる。そのプロセスを、互いに見守り合う勇気。
言葉にすると明らかに矛盾甚だしいのだけれども、でもそうとしか言えないなと思っています。このお話が、どうか少しでも伝わっていたら嬉しいです。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
