先日、映画「TOKYOタクシー」を観てきました。

監督は山田洋次監督、主演は、木村拓哉さんと倍賞千恵子さん。映画『ハウルの動く城』とまったく同じキャストです。

内容としては、「昭和から平成、令和と日本に生きる人々を長年描き続けてきた山田洋次監督が、刻々と変化する大都市『東京』を舞台に人生の喜びを謳い上げる感動の物語。」という宣伝文句です。

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最初は「なるほど、ものすごく倫理的な終活映画で、まさに松竹だなあ」と思いながら観ていました。

ところが、物語が進むにつれて、ひとりの女性の「秘密」があれよあれよと描かれていきます。

そして、そこからまた、ものすごく倫理的に着地するというなんとも不思議な映画。

以前もご紹介した映画「嫌われ松子の一生」みたいでもある。

もちろん、観る人を選ぶ作品だろうし、若い人にはとても退屈な映画かもしれないけれど、僕はこのタイミングで観ることができて本当に良かったなあとしみじみ思います。

何よりも印象的だったのは、散々映画を撮ってきた巨匠・山田洋次監督が、晩年に「キムタクと倍賞千恵子、さらにその若かりし頃の役として蒼井優を据えて、この内容を描いた」という事実そのものです。

そこに、ものすごく「なるほどなあ」と感じさせられるものがありました。

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で、最近映画や小説も含めた「物語」の話ばかりしていますが、物語を通してよく思うことは、「まったく異なる属性の人間が、お互いにわかりあえる」というとき、そこには何か理路整然としたロジックが必要なわけじゃない、ということです。

むしろ、この映画で描かれていたような「ドライブ」シーンが必要なのだと。

つまり、物語に描かれるのは「旅」という体験そのものなわけですよね。

もっと具体的に、何が言いたいのかと言えば、物語はひとつの旅を通じて、本来であれば決して分かり合えない者同士、現代風に言えばまったく界隈が異なる者同士であっても、「共にいることができる」ということを腹落ち感を持って描くことができる。

それが物語の強みなのだろうなということです。

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既に収録済みの来月配信される「オーディオブックカフェ」の中でも、ちょうど似たようなお話をしています。

そこでご紹介している作品は、とある老人とその孫世代のロードムービー的な小説のオーディオブックです。

具体的には、頑固な昭和ストロングスタイルの老人と、若い孫世代が共に旅をしながら数多の困難を切り抜けていくことで、自然と「古い価値観」や「古い物語」を手放していけるという構図。

その物語を通じて僕がすごくいいなと思ったのは、その老人の頑固さは捨て去らない、ということなんです。

老人の個性は個性として、ちゃんと大事にされていること。良い意味で、昭和ストロングスタイルそのまんまだなと思うところもある、その矛盾が、なんとも素晴らしい。

こういう表現活動もあるんだなあと、なんだかものすごく感心してしまいました。

つまり、老人も若者も、お互いが自らの信念や軸は変えずに、異なる世代が共にいるために、どんな歩み寄り方が可能なのかを、物語形式で描いてくれている作品だったんですよね。

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他者と共にいるときに、大事なことは論理じゃないと思わされる。

むしろ「多様性」みたいなお行儀のよい論理や正解を一方的に振りかざされると、僕らは逆に心を閉ざしてしまう。まさに現代社会の政治の世界で起きていることですよね。

他にも、似たようなドライブシーンを描いている作品で言えば、『ドライブ・マイ・カー』なんかもそう。

半分ドキュメンタリー、半分は物語という意味では『水曜どうでしょう』のドライブシーンなんかもそうですよね。

あとは、昨年の大人気ドラマ『不適切にもほどがある』もある意味ではそう。

あれは、タイムトラベルという旅を通じて、昭和世代の頑固オヤジと、その孫世代である令和の若者たちが、お互いのカルチャーギャップにいちいち驚嘆し、いがみ合いながらも、最終的には共にいられる関係性になっていく。

お互いに、余人を持って代えがたい存在になっていく物語なわけです。

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で、この物語的な変容をする際に僕らはお互いを過度に変化させることことなく、でもお互いのあいだにある「真ん中の何か」を共に大きく変化させながら、共にいられる方法を自然と探るのだと思います。

しかも、その時には、より本質的な自己を相手に対してさらけ出し合いながら、それを行うんですよね。

これこそがまさに「物語」のもつ力だなと最近強く実感します。

そんな物語形式だから、客観的に観たときには「絶対に橋がかからない」と思うような場所に対しても、橋を架けられてしまう。それはまるで魔法のように、です。

「あー、確かに最終的にはこのふたりが共にいることを選んだのも納得だ」と視聴者視点の僕らが見事に腹落ちしてしまう。

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この視点が、今とても大事だなと思うのです。

で、そのときにカギになるのが、たぶんお互いの「秘密」の取り扱い方なんでしょうね。

結局のところ僕らが知りたいのは、他人が胸のうちに秘めている誰にも知られたくない「秘密」なのだと思います。

そして、その「秘密」のための器というか、それを包むオブラート、あるいは消化可能にするための手法が、小説なのだと感じます。

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また、これは別の言い方で言い換えると、自分の中の「トラウマ」の取り扱い方と言ってもいいのかもしれない。

そんな自らをどう仕様もないほどに駆動し、形成してしまっている「弱み」としての何か、でもある。

この点に関連して、先日もご紹介した内田樹さんの『新版 映画の構造分析』のなかに、トラウマの興味深い話が書かれていました。

以下本書から少し引用してみます。

トラウマはそれを抱え込んでいる本人によっては決して言語化できません。というのは、その人の言語運用そのものが、その「言語化できない穴」を中心に編み上げられているからです。
ですから、仮にトラウマが言語化できたとすれば、それはその人の言語運用全体(単語の意味も、発声法も、文体も、統辞法も)すべて、つまりその人の人格そのもの、が消失してしまうことを意味しています。私が「私」としての自己同一性をキープしながら、なお「私のトラウマ」を語るということは原理的に不可能なのです


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この話はまさにそのまま、以前ご紹介した村上春樹の『国境の南、太陽の西』の主人公の独白場面にも見事に重なります。

長いのでここで再び引用することはないですが、ぜひもう一度改めて読んでみて欲しい。

村上春樹という作家はずっとこの「秘密」こそを描いている。だからこんなにも世の中から受け入れられるのだろうなあとも思います。


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きっと人間には、本音と建前だけではなく、その奥に第三の層としての「秘密」がある。それは時に本人さえも無自覚な場合もある。

その取り扱い方さえ物語を通して学ぶことさえできれば、僕らは、決して橋がかからないと思うところであっても、魔法のようにして橋を架けることができるのかもしれない。

ここで思い出してしまうのは、「秘密は贈与になる」という、河合隼雄さんの『大人の友情』に書かれていたお話です。

「秘密」も贈りものとして用いられやすい。直接的に経済価値に結びつく秘密もあるが、それとは関係なく、秘密を共有する関係とは、両者一体を意味することになるので、友情の証しとして「秘密」が語られることになる。



ゆえに、秘密を開示することは、同時にものすごく危うい行為でもある。取扱注意の代物でもあり、秘密は劇薬なわけです。

だから昨日も書いたように、物語自体も「身近な薬物」だなとも同時に思います。

人をつなげて癒やしをもたらすこともあれば、人を奈落の底に落としてしまうような危うさも同時に秘めている。

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でも、繰り返しになりますが、ここを経由しないと僕らは建前、つまり社会的な正しさばかりに拘泥し、お互いに罵詈雑言を投げかけあって、常に分断し続けてしまう。

だからこそ、どうやったらそこに橋を架けていくことができるのか。

その時の物語から参考にしたほうがいいことは山ほどあるのだろうなあと思います。

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最後にこれは完全に余談ですが、昨日の夜、映画『武士の一分』も見返しました。

こちらも山田洋次監督と木村拓哉のタッグの映画であり、約20年前に公開された映画です。

『TOKYOタクシー』と『武士の一分』はまるっきり異なる映画ではあるけれど、このタッグが20年の歳月を経て、ふたたび何を描こうとしたのかは、自分なりにいま考えてみる価値があるだろうなと思ったからです。

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「武士の一分」は、下級武士とその妻が、互いの恥ずかしい部分と弱さ、そんな「秘密」を開示しあった者同士であること。そして、その秘密ゆえに一度完全に離縁をし、ただ、最終的には再び共にいることができるようになる、そんなことを描いている作品です。

『TOKYOタクシー』とは、またまったく毛色が異なる作品ではあるけれど、でも、結局のところもまったく同じカタルシスを描いているなとも思いました。

物語を通して、この感覚を味わうことが、本当に大事だなと感じています。

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物語の中だけにあるもの、そして論理にはないもの、それは「時間の経過」だと思います。

そしてもう一つ、物語には「自分ではどうしようもできないこと」が突如起きてしまう。

この時間経過と、予期せぬ不運な出来事が、まさに「ドライブ」のようなメタファーで描かれてあり、そして「旅」そのものでもある。

そんな旅特有の困難をどうやって共に乗り越えていくか、なおかつ乗り越えようと実践するときに、僕らは相手をかけがえのないパートナー、仲間として捉えてしまうということなのでしょうね。

今後も、優れた物語をもとにしながら、みなさんとそんなことも探っていきたい。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。