そのひとが「本気で世界を変える気があるかどうか」という判断軸で、取り組む姿勢を評価するみたいな“あるある”の基準について、僕はいつも不思議に思うことがあります。
もし、本当に本気で世界を変えようとしているのだとしたら、まず真っ先に自覚しなければならないのは「自分の代だけでは絶対に変わらない」という、どうしようもない現実のほうじゃないかと。
そのうえでやるべきことは、「自分の人生のうちに結果を出すこと」ではなくて、三代くらいかけて根本的に構造それ自体を変化させていくこと。
川の流れそのものを変えてしまうことや、山そのものを動かすための“土台作り”に人生をかけて取り組むなど、きっと、本気であればそういう方向に向かわざるを得ないはずです。
にもかかわらず、実際に世の中を見回してみると、自分一代のうちにどうにか結果を出そうと、忙しそうに奮闘している人は、とても多いです。
そして、そういう姿を見るたびに、僕はついつい、それって本気というよりもただの自己顕示欲なんじゃないかと思ってしまうところがあります。
本当に「世界を変える」ことを目指すなら「自分の代では結果が出ないこと。それでも誰かがやらないと、将来的に何も変わっていかないこと」そこに、時間や労力を費やす覚悟があるかどうか。
本気かどうかは、むしろその一点で決まるのではないか、と。
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で、ちょうど、先日参加した京都でのお食事会でも、そんな話題となりました。
お食事会には、イケウチオーガニックの池内代表、坂ノ途中の小野さん、建築設計士の黒木さんも参加していました。
みなさん、一世代で実現できることに対しては挑戦をしていない方々。
あくまで、自分は起案者であり、贈与者でもあるというような気持ちで、完全に次世代に託さざるを得ない理想に向かって、目の前の現実の課題に対して向き合いながら邁進されている方々です。
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とはいえ、僕らのような「普通の人間」からすると、そこでどうしても湧いてくる疑問があります。
それは、どうすれば、そんなふうに「山を動かす」土台作りに対して専念できるのか?そのスケールのことを考えながら、どうやって絶望せずにいられるのか?
言い換えれば「自分の代では決して結果が出ない」と知りながらも、どうしてそれほど淡々と続けていられるのか?という問いです。
その話題になったときの、池内代表のお話が、個人的にはすごく印象的でした。
池内代表が話されていた要点を、僕なりに言葉にすると「受け取ってもらえるかどうかは、最後までわからない。だからこそ、淡々と実行するしかない。その先にどんな未来が待っていようとも、自分にできることは、それだけだから。」といったことを非常ににこやかに笑顔で語られていました。
収録も何もしていない場だったので、ここで書いたのはあくまで僕の曖昧な記憶にすぎないのですが、でも、僕にはそういうメッセージとして届きましたし、心から共感したお話でした。
また、これはまさに、吉本隆明の語る「非知」に向かって静かに着地するというスタンスそのものだな、と僕は感じました。
結果として、「ちゃんと次世代に向けて、つなげておいたから」と言える状態も残せる。つまり、これもある種の「霊的成長」の話でもあるわけです。
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とはいえ、ここで僕ら一般人に出てくるのが、もうひとつの嘆きです。
「そうやって思えるもの、熱中できる対象自体が見つからないんだ…!」と。
もし、祈りを込めるように、日々淡々と取り組めるくらい夢中になれるものが見つかっているのなら、自分も、何世代もあとにようやく“山が動くかもしれない”ようなことに、惜しみなく没頭できるかもしれない。
でもそもそも、その“祈りを込められる対象”自体が見つからない。
どうやってそれを見つければいいんだ?という切実な声は、たしかにあるなと思うのです。
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ただ、別の視点からその疑問を眺めてみると、また違う景色も見えてきます。
それは、世界にはすでに、そうした“祈り”がたくさん転がっているという見方です。
誰かが、結果が出るかどうかもわからないのに、淡々と実行してきてくれたこと。その積み重ねとしての“祈り”が、日本中・世界中のあちこちに実はすでに転がっている、と考えてみることはできるのではないか。
だとすれば、「自分の祈りをゼロから見つけよう」と力んでしまうよりも先に、すでにそこにある贈与を発見することのほうに、意識を向けてみるという態度が、大事になってくるのかもしれない。
まさに、「押してダメなら引いてみろ」的な発想の転換です。
そして、「自分も一緒に動かしたい」と心から思える山は、案外足もとに転がっている。まさに灯台下暗し、だなと思うのです。
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つまり、本当に僕らに求められているのは、そんな祈りに対して耳を澄まし、声なき声を聞き分けることなのだと思います。
そこに込められた「贈与」を受け取る力を鍛えること。先人たちの祈りの声に対して、ちゃんと耳を澄ませること。
それができたとき初めて、「本当の意味で、誰かの仲間になる」「一員になる」という状態が立ち上がってくるのだと思います。
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僕らは圧倒的に遅れてこの世界にやってきた、その前から続いているより大きな共同体の声を聴く。
それこそが、本当の意味で、物語を受け継ぐということだとも思うから。
誰かが自分のエゴの実現のために、意図的に作り出した大きな物語に対して、ベンチャー的にジョインしたり、推し活的に同化するのではなく、なんですよね。
ここって本当に紙一重だし、ともすればまったく同じ状況だと思われがちだけれども、でもそこには明確に雲泥の差がある。
この違いを見極めることは、詐欺師と本当に信頼に値する人間を見分けるぐらいに重要な視点だと思います。
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で、今日のお話はきっと、河合隼雄さんの「イエ」や「永遠の同伴者」の話にもつながるはずです。
つまり、河合隼雄さんも似たようなメッセージを後世に向けて語ってくれている。また、この重要性を指摘してくれている視点は、世の中には多数存在している。
でもその意味を理解できないのが、僕も含めて現代人の愚かさでもあるわけです。
そして、蒙を啓こうとしてくるひと、見下してくる声の大きな人に、なぜか引きつけられて騙されてしまう。
そうじゃない。淡々と祈りのように願いを込めて、山を動かそうと努力してきた先人たちに対して、自覚的であることが本当に大事だなと思います。
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だとすれば、お互いにその存在に気づくこと実感するためにはどうすればいいのかを、僕はド真剣に考えたい。
「ついてきてくれるなら、いきましょう」と、そんな勇気も自然と湧いてくるはずですから。
だって、実際、静かについてきてくれるわけだからね。
その時は、決してひとりでもがいている状態でもなくなる。その背後には、本当にたくさんの先人たちの努力が連なっていて、その支えの上に自分が立っていることを深く実感することができるはずです。
先人たちが文字通り自分の背中を押してくれて、かつ、ありとあらゆる次世代の人々が、僕らがそうやって受け取ったバトンをまた、同様に受け取ってくれる自らの後継者になってくれる可能性を秘めているわけですから。
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で、そんなことに自分が気づいたということは、ここに気づく後世の若い人たちも必ずいるということです。
僕は、そんな次世代に向けた贈り物をちゃんと残すことも、同時にとっても大事だなと思うのです。
何かメッセージを発信するときに、わかりやすくすることは、たしかに大事。でも、わかりやすさを追求しすぎて、単純さ、本人の煩悩だけに帰着させることはどう考えても間違っている。それだと本末転倒すぎるなあと。
それは、先人にも次世代の人々にもどちらに対しても、失礼な態度だと思います。
コンテンツとして売れて、自分の承認欲求が満たされて、自分は満足できるかもしれない。
でも、そうじゃなくて、先人たちが動かしてきてくれた山に対して、そこに贈与を発見した人たちに対して「本当に価値があるものがここにあったんだ」と思ってもらえるようなものをしっかりと置き手紙のように残しておくこと。
その架け橋となる、敬意と配慮と親切心が整った場を日々耕しておくこと。
そうやって、メッセージを時代に合わせてアップデートしていくことが、本当に現役世代の役目であり、責務だなと思っています。
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そして、この贈与を発見する力さえ、それぞれ自らに身に着けてもらうことさえできれば、あとはどんなバトンを拾おうとも、そしてどんな大きな山を動かそうとする中継者になろうとも、いつまでもその人の中に生きる力、生きる気力、やり続ける胆力は無限に流れ込んでくる。
そのときにはもはや、自分自身でモチベーションなんて高める必要もなくなるわけですから。
逆に言えば、そうやって自らのモチベーションだけに頼ろうとするから、ひとは鬱になる。それよりももっと大きな井戸、大きな泉と繋がろうとすることが大事で。
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以前も書いたように、若者が求めている「呼びかけられたいという欲望」は、決して間違っていないと僕は思います。
また、その延長にある「報われたい」という感情も間違っていない。
むしろ、それが間違っていると思って自らの耳を塞いでしまうのは、違う。むしろ、もっともっとちゃんと耳を澄ませと僕は思います。
なぜなら、僕らが選べるのは、呼びかけられる対象を選ぶことだけなのだから。
何の呼び声に対して応答をしていくのか、それこそが大事であって、今日の話もまさにそのための視点みたいなものが、少しでも提供できていたら本当に嬉しいです。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2025/11/22 20:24
