「対話しやすいひとって、どんなひと?」
そう聞かれたら、なかなか一言で答えるのは難しいかと思います。
僕も日々、このオンラインサロン内で対話型イベントを実践している中で、自分が対話しやすいひとになれているだろうかと不安になり、そのために色々な方法を試行錯誤している状態です。
最初は単純に、自分の意見が明確に定まっていて、理路整然とその根拠を語ることができるひとが、対話しやすいひとだと思っていました。
だから、複数の意見に一理あると思えるようなタイプの問いでも、なんとか自分の意見を一つに絞ってから、対話の場に臨んでいました。
でも実際には、そうやって無理やり一つ意見を準備したときよりも、自分の意見が明確に定まっておらず、自分の中で迷いがあったり、答えが定っていなかったりするときのほうが、なぜか対話の場に参加してくれたみなさんの満足度が高いのです。
「あれ、なぜだろう…?」と、いつも不思議でした。
でも、先日とある本を読んでいたら「これかもしれない!」と思える理由が見つかったのです。
今日は、その内容をこのブログでもご紹介してみたいと思います。
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その本とは、このブログではもうお馴染みの内田樹さんが最近出された新刊『複雑化の教育論』です。
「オープンマインデッドとは、どのような状態か」という話が本書で語られていたので、そこから少し引用してみます。
オープンマインデッドであるというのは、「私はあなたの話に耳を傾けますよ」という他者に対する開放的な構えであるより以前に、 その人自身の中ですでに対話が始まっていることです。
自分の中ですでに対話が始まり、さまざまな異論が行き交っている。そういう人はとても相手として話しやすい。当然ですよね。その人に向かって話しかけるに先立って、その人の中にはもう「異論への回路」が開いているんですから。こちらの居場所がもう用意されている。
いかがでしょうか。僕はこの表現を読んだときに「なるほど、だからか!」と膝を打ちました。
言われてみれば、たしかにそうなんです。
上述した僕自身が逡巡している状態というのは、自分の意見がないわけではなく、複数の意見が自分の中にすでにあり、一つの意見に決めきれていない状態。
どれも一理あるなあと悩み苦しみながら、自分の中で既に「対話」が始まっていたときなのです。
そうすると、実際に対話の場に参加して、複数人で対話が始まったときにも、「あのひとは私だ」「このひとも私だ」と思えてくるようになる。
その全員の意見に深く共鳴し合いながら、その中でより良い答えを共に探求していくことができる。
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このとき、無理に努力して、相手の意見を尊重しようとしたり、相手の意見を聞き出そうとしたりしなくても、心の底から迷い苦しみ対話を楽しんでさえいれば、勝手にそのような状態となってくる。
目の前の相手も、きっと僕のそんなあけっぴろげな葛藤の中に、自分と同じような部分を見つけてくれて、その僕の葛藤を頼りに、自分の思いを素直に語ってくれるようになるのだと思います。
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どうしても僕らは、何か複雑な問いを目の前にしたとき、そこで自らが引き裂かれること、葛藤することを極端に嫌います。
明確な一つの解答を導き出そうとしてしまう。そうやってすぐにスッキリしたがるのです。
そして、それができないと「なぜ自分もあのインフルエンサーやあの上司のように、ハッキリとした意見が言えないのだろうか」と自らを責め立ててしまう。
でも、実際はその葛藤している状態が、対話におけるオープンマインデッドになっている一番良い状態なのです。
その状態で他者と対話をすることで初めて、ひとりでは到達することができなかった「本当に成熟した納得できる答え(状態)」に辿り着くことができて、それらの過程すべてが、自らの血肉にもなっていく。
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つまり「終わらない自己との対話が続いているひと」が、実はいちばん対話しやすい相手だということです。
これからもみなさんと一緒に、そんな人々が集まる対話の場をつくっていくことができたら嬉しいです。
今日のお話がいつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても何かしらの考えるきっかけとなったら嬉しいです。