「AIで多くのホワイトカラーは解雇される」という話は信憑性を感じているひとは多いと思います。
でも、同じような意味合いで、家族が”解雇”されると考えるひとは、意外と少ないなと思います。
どちらの状況においても同じ「人間関係」だというのに、です。
だとしたら、会社のような組織と家族は一体何が違うのか。
AIが出てきても、家族は継続し続けると思うその根拠とは一体何なのか、それをもっと真剣に考えてみたいなあと僕は思っています。
今日はその結論が出るわけではないですが、そんなことを今現在考えているよ、というお話です。
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さて、これは決して「家族は絶対に崩壊しないタイプの集団」だと信じているわけではなく、AIによって「家族の無価値化」だって十二分にありえるだろうなと思うからです。
家族は、何を本質としてつながっているのか、少なくとも僕らが何を本質だと信じてつながっていると思っているのか。
AIが出てきても崩れないと思っているその理由について真剣に考えておかないと、思いも寄らない形で「もう家族なんていらないよね」となってしまう可能性は、いくらでもありえてしまうと思うんですよね。
また、もしそうやって考えてみたことをきっかけに、その本質のようなものがちゃんと見えてくるならば、これから崩壊に向かうかもしれない他の組織や共同体においても、その本質を大事にし続けることで、これからやってくる大AI時代において、その人間関係を維持継続をすることができるわけですからね。
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で、たとえば歴史を振り返ってみて、こんなにもあっという間に「核家族化」が進むなんて、数十年前の人々は、誰も思ってもみなかったと思うのです。
大家族や親戚というのは、当然のようにお互い助け合うものだったはず。それが戦後しばらくして、家電やら保険やらサラリーマンやら、ありとあらゆる資本主義的な価値観の変化、その要請によって、ドンドン大家族が解体されていった。
もちろん、そこには西欧的な個人主義の価値観が浸透したこともかなり大きいと思います。
その結果として、今では誰も疑問なんか持たずに、核家族が当たり前となりました。
そのうえ、日本の離婚率は3割を超えていて、もし子供がいたとしても、ちゃんと養育費さえ払えば離婚してもいいと思っている両親がドンドンと増えている。
夫婦別姓だって当たり前のように議論されている。広義の意味での「家族解体」が広く行われてきたわけですよね。
少なくとも、ありとあらゆる経済・思想・テクノロジーによって、旧来型の「大家族」はここ数十年で完全に「無価値化」されたわけです。
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もちろん、僕は保守のひとたちが語るように、それが間違っているといいたいわけじゃない。
そうじゃなくて、それが今の世の中の帰結だということです。
だとすれば、そんな核家族だって、ひとつの通過点に過ぎなくて、そのうち解体されて”核個人”になったとしても何の違和感もないよなあと思う。
それによって、「資本」が増殖するとわかってしまったら、いくら生身の人間が愛だの絆だの叫んでみたところで、資本の津波には誰も抗えないと思います。
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この点に関連し、多くのひとは、そもそも家族という共同体における実存的な問題を面倒くさいものだと捉えているはずです。
心理学者・河合隼雄さんの『家族関係を考える』の中にとても興味深い話が書かれてあった。
河合さんは、現代の日本人は、家族についての既成のモデルを失っていると言います。
古いものも駄目、新しいものも駄目である、と。このような状況であるために、家庭内における実存的対決はますます激しくなりつつあると語ります。
ゆえに、家族との対決から逃れるために家庭の外に「疑似家族関係」をつくる人が生じてきたと言うのです。以下はそのような話のくだりの中で、具体的に話題に出されていた事例についての部分からの引用となります。
これは、子どもの問題で相談に来られた母親で、似たようなことを言われる人が相ついであったために、筆者もなるほどと思ったことである。すなわち、ある母親は社会的なある運動に熱心だった人であるが、この人に言わせると、その運動の仲間たちが、知らぬ間に疑似家族的になっているというのである。考え方を同じくしている者たちだから、意見に賛成し合い慰め合うことが多い。そして、お互いが自分の陰を見せ合って衝突するということもない。だから多くの仲間とつき合っていて、そこに心の安らぎを感じるのである。ところが、その母親にとって自分の子どもたちの方が、もっと正面からの対決を迫ってくるのである。親子関係には、仲間たちのように「なあなあ」の関係はない。その母親はこのような反省にたって、自分は子どもたちとの真の関係をもつことを避けて、家の外に疑似家族をつくっていたのではないか、と言われた。
この本自体は、1980年に出版された本だから、政治闘争の話だけれど、最近であれば、推し活やオンラインサロンのようなものもきっとそう。
もちろん、最近の都知事選なんかは、文字通りそうだったように、僕には見える。
河合さんは「かつては、家族たちの血のつながりを基盤として、人々は家の中では緊張感をとき、好きなことをしても許されるという安心感をもっていた。ところが、今では逆に、人々は家族関係の中に緊張感を感じ、家の外に安らぎを見出そうとする。しかし、結局のところ、このような方法はうまくゆかない」と語ります。
とはいえ、家族関係において苦労すればするほど、人々はもっともっと理想的な疑似家族に向かうに決まっています。昨日も書いたように、そうやってより単純で「クリーン」な別の<現実B>に置き換えられる余白がそこにあるわけですよね。
人間関係を抜本的に変革してしまおうと企んでいるAI(及びその関連会社)が、ここの部分を狙いに来ないわけがないはずなのです。
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そして、さらにぶっちゃけて正直にいうと、このWasei Salonも完全にそうなんだと思います。
ある種の共同体、現代の問題点に合わせて。より単純で「クリーン」な別の<現実B>提供しようとしている。
実際に、家族との衝突、その避難場所として活用してくれている場面も本当によく目にします。
もちろんそれは決して悪いことではないかと思います。なんなら運営している人間からすると、一番嬉しく理想的な使い方です。
でも、だからこそ同時に「喫茶去」精神もめちゃくちゃ大事だとも、僕は思っているんですよね。
ここが今日一番つよく強調したいポイントかもしれません。
喫茶去とは何か。改めてここでも説明すると、これは禅の言葉で、原典は公案『趙州喫茶去』。
高名な禅僧・趙州を訪ねて一人の修行僧がやってきたとき、その禅僧は言いました。
「ここに来たことがあるか?」
修行僧「初めてです」
趙州「お茶を飲んで去れ」
また別の修行僧がやってきて、趙州はまたもや言いました。
趙州「ここに来たことがあるか?」
修行僧「あります」
趙州「お茶を飲んで去れ」
この「お茶を飲んで去れ」というのは、もともとの意味は訪ねてきた者に対しての叱咤激励の意味だそうです。
一方で「どうぞ、ゆっくりとお茶を飲んでいってくださいね」という労いの意味もあるのだそう。
二つの意味が完全に相反していると感じるでしょうし、その上でそこに何のつながりもないとも思うはず。
でも僕は、「とりあえずお茶でもどうぞ」と「お茶を飲んで去れ」は、どちらも同じように、目の前の他者の「ままならない人生」を素直に肯定し、そしてそれをそのまま励ましているんだと思ったんですよね。だから早く去れ!とも同時に言う。
そして、それをWasei Salon中でも大切にしたい価値観だと思ったんです、直感的に。
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で、今日の話に関連させて、いま僕が思うのは、そうやってままならない現実に打ちひしがれながらも、擬似的で理想的な共同体を体験して、そのうえで自分のそれぞれの持場、自らの「継続性」の中にも戻ろうとすることが、いまとても大事だなあと思うんです。
そして「再出発をする力」そんな訂正する力をそれぞれに発揮する。でも、擬似的な「物語」だって同時に必要になる、だからその矛盾する両義性を込めて、喫茶去なんです。
そうやって行き来する中で、自分自身の力でひとりひとりがそれぞれ考えて欲しい。何が一体人間同士の「つながり」の本質なのか。何が自らにとっての「生きる」ということなのか。
それは決して科学的なものではないはずなんですよね。言い換えると、ほかでもなくこの私の問題として向き合うことがひとりひとりに求められる。
だから各人によって、すべてその答えは違うに決まっていて、科学のように万人に共通する答えはでない。
そのときに、宗教的な観点だって、必ず求められるのは間違いないわけです。科学の普遍性と、宗教の個別性を架橋するものとしての最後の砦が、僕はその行ったり来たりだと考えているんだと思います。
くれぐれも「継続性の切断」をさせないこと。もちろん、現実と向き合いすぎて鬱にもならないこと。ちゃんとガス抜きができる一時避難場所としてのサードプレイスが存在していることが大事だなあと。
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で、家族の話に戻すと、これからますます家族との実存的な対決に嫌気が指したときに、外部者が現れてより単純で「クリーン」な別の<現実B>を提供しようとしてくるはずです。
そしてある種の成功事例、映画『her』の家族版のようなものを散々リアルな形で観せられることになるでしょう。
それは当時、核家族の普及において、いかに核家族が理想的なのか、それがホームドラマによって、マスメディアの意図的な戦略のもと、実現したのかを考えればはっきりと分かることだと思います。
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今実際に、会社という組織においては、AIによってまさにそれが起きている。「もうこっちでいいじゃないか」という話になっている。あんなところに二度と戻る必要はないというように。
たぶんきっと、これからの社会の中において核家族を作ろうとすることは、90年代以降に大家族や親戚関係を作ろうとするような状況にあるのだと思います。
この時期に合わせて言えば、映画「サマー・ウォーズ」のような世界観を実現させようとすること。
でもそれが、当時から現代にかけて、過去30年間のあいだでどれぐらい稀有でむずかしいことであり、時代に抗っている行為だったのか。今振り返ってみれば、それがはっきりと理解できるかと思います。
きっと似たようなことがまた起きる。そうやって、世界を眺めてみることもときに、とても大事なことだと思います。
何か明確な答えがある話ではなかったですが、いつもこのブログを読んでくだっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。