最近よく考えているのは、いま自分たちは一体どのような壁にぶつかっているのか、ということです。

言い換えると、日本に限らず、世界全体で同時多発的に追い込まれている状況とは一体何なのか。

今年は特に「世界的な政治の年」と言われています。全世界の約40億人もの人々が、何かしらの形で国家レベルの選挙で投票する機会を持つと予想されているらしいです。

これは、過去に類を見ないほど人類史上最大規模の民主主義の実践とも言えそう。

このような状況下で、各国で争点や論点になっていることは様々あるとは思いますが、じゃあ、その中でも右派と左派が何に対して戦っているのかということが問題になってくるなと思い、そんことを漠然とモヤモヤ考えていました。

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で、この点に関連して、社会学者の大澤真幸さんの考察が非常に示唆に富んでいるなと。

以前もご紹介した『我々の死者と未来の他者 戦後日本人が失ったもの 』という本の中で大澤さんは「どの国の歴史、どの共同体の歴史、どの集団の歴史にも、無数の過ちや罪が含まれている」と指摘します。

具体的には、奴隷制、人種主義、民族差別、女性の抑圧、自由の侵害、特定の宗教の弾圧、異端審問などなど。

これらの過ちや罪は取り返しのつかないものであり、常に手遅れの状態で見出されるのだと。

逆にいえば、手遅れの状態だからこそ、人々がこれらの問題と戦い、克服しようと決意をする。

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たとえば、人種主義の問題解決に取り組むのは、何世代にもわたって特定の人種が差別され、弾圧され、辱めを受け、時には虐殺されてきた後のことなわけですよね。

そして、いったん人種主義や奴隷制、女性の抑圧などで誤りがあると認識されれば、僕らは必然的に、それらが過去からずっと誤りであったと考えざるを得なくなります。

このような認識は、人々の過去との関係に大きな影響を与える。「あの頃は、それが正しかったのだ」という言い訳は決して通用しない。

つまり、そのような過ちを犯していた過去の人々、言い換えれば「私たちの先祖」が、現代の私たちの価値観からすると受け入れがたい存在になってしまうと大澤さんは語るのです。

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で。大澤さんは、このような状況について、以下のように書かれています。

どの国民も、どの民族も、どの人民も、自らの罪や過ちを見出すたびに、<我々の死者>を失ったところから、あらためて始めなくてはならない。<我々の死者>を棄却しつつ回復することの反復、これは歴史をもつ共同体の宿命である。


つまり、これは、国家や民族の「継続性」や「系譜」の問題なんだと僕は思います。

そして現代の世界的に広がったリベラル的な基準から振り返ると、私たちよりも前の世代がやってきたことの多くは間違っていると判断せざるを得ない。

そんな中、最後の頼みの綱のようなものだった、資本主義や経済的な発展という概念自体も現在ではひとつの限界に直面してしまっている。

このような状況下で、多くの人々は過去との関係を切断せざるを得ないと考えているんだろうなあと。

自然とそれが大きな争点として世界各地の選挙で湧き上がっているのがまさに今なのだと思います。

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でも、ここで、新たな問題が生じるわけです。

そして僕らがぶつかっている大きな壁の本質にもつながっていく。

それは、なにかといえば、このような複雑な問題に対して、「わかりやすい解決策」を提供しようとするのが「政治イデオロギー」なのだと思います。

村上春樹さんの本を読んでいたら、興味深い考察が展開されていて、今日の話ととても深く結合する部分があるなと思ったので、少し長いですが『村上春樹    雑文集』という本からそのまま引用しておきたいと思います。

そこにたまたま強力な外部者が現れる。その外部者は、いくつかの仮説をわかりやすいセットメニューにして彼らに手渡してくれる。そこには必要なすべてのものが、こぎれいなパッケージになって揃っている。これまでの混乱した<現実A>は、様々な制約や付帯条件や矛盾を取り払った、より単純で「クリーン」な別の<現実B>に取り替えられる。
そこでは選択肢の数は限られており、すべての質問には理路整然とした解答が用意されている。相対性は退けられ、絶対性がそれにとってかわる。その新しい現実において彼/彼女の果たす役割はきわめて明確に示され、なすべきことは細かい日程表として用意されている。努力は必要だが、その達成レベルは数字で計測され、図表にチャートされる。その<現実B>における自己は、「プレ自己」と「ポスト自己」にはさまれた、故に正当な存在意味と前後性を持つ自己であり、それ以外の何者でもない。とてもわかりやすい。それ以上に求めるべき何があるだろう。そしてその新しい現実を手に入れるために、彼/彼女が相手に差し出さなくてはならないのは、古い現実だけなのだ。そしてその古い現実の中でいつもどたばたと苦闘していた、みっともない自我だけなのだ。
「跳びなさい」と外部者は言う。「君がやるべきことは、古い大地から新しい大地に跳び移ることだけなのだ」


これは、オウム真理教(あるいはほかのカルト宗教)に多くの若者を引き寄せる要因は何かを語られている部分で書かかれてある文章なのですが、

まさに今、世界中が「本当の自分たちとは何か。どうあるべきか。」を問われている状態で起きていることに非常に酷似しているなあと思うのです。

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ただ、村上さんは、このような取引自体はそれほど間違ったことではないと語ります。小説家である自分自身も、ある意味で似たようなことをしているという自覚があるというふうにも書かれています。

しかし、そこには重要な違いがあるというのです。

では、その違いとは何か?

小説の場合、物語が終わると、仮説は基本的にその役割を終えるようになっている。読者はその記憶を部分的に留めるだけで、元あった現実の中に戻っていきます。言い換えれば、小説の物語は「開かれている」のだと語るのです。

一方、カルト宗教は、人々の「物語の輪を完全に閉じてしまう」ものがある。村上さんは、オウム真理教が行ったのは「本当の自分とは何か?」という問いかけ自体のもたらす閉鎖性を、より強固な閉鎖性に置き換えることだったと指摘しています。

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僕は、最近の選挙においても、まさにここで語られていることと全く同じような構図が存在しているなと思ってしまいます。

有権者は、しばしば単純化された世界観や解決策を提示してくる政治家や政党の間で選択を迫られている。より強固な閉鎖性に置き換えられようとしている。

このような状況下で、私たちに何ができるのか。

それが、「問い続けること」だと僕は思うんですよね。

「クリーン」な別の<現実B>に安住した瞬間に、それはたとえどんな内容であっても、悪になる。

相反する価値観における弁証法、そのアウフヘーベン(止揚)する「運動の連続性」にこそ、価値があると繰り返すのも、まさにそういうことです。

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で、この話は「訂正可能性」の概念とも、密接に関連してくると思っています。

以前もご紹介したように、哲学者の東浩紀さんが提唱する「訂正する力」について、作家の飲茶さんによれば、「訂正する力」とは、「実は...だった」と過去を再解釈して、明るい未来を作っていく力であると語ります。

一方で、この考え方に対立する2つの以下のようなよろしくない考え方がある。

「ぶれない力」:過去(考え)を絶対に変えない「俺は間違っていない!このままいくぞ!」というスタンス。

 「リセットする力」:過去をなかったことにして、ゼロから始める「全部間違っていた!今までのは無駄だった!」というスタンス。

前者は典型的な右派のスタンスで、後者は左派のスタンスに近い。つまり、「訂正する力」は、この中間に位置して、常に「再出発する力」を意味しているわけですよね。

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で、村上春樹さんは、先程の文章の続きに以下のようなことを書かれていました。

再度少しだけ引用してみます。

継続性の切断 ー それがおそらくはキーポイントだ。継続性を断ち切ることによって(あるいは徳装的継続性に無期限に置き換えることによって)、現実は一見してうまく整合化されたように見えるからだ。しかし継続性という、いささかむさくるしくはあるが必要不可々な空気穴が人為的に塞がれたことで、部屋は否応なく酸欠状態へと向かっていく。それはどう考えても危険なことだし、実際に悲惨きわまりない結果をもたらすことになった。


まさにこの「継続性の切断」というのが厄介極まりない状態。

一方で、僕ら人間は、無意識のうちにこの「継続性の切断」を自分たちから望んでいる面も間違いなくあるんだと思うんですよね。

なぜなら、大澤さんが語るように、これまで継続してきたものの多くが間違っていたと認識せざるを得ない状況にあって、今すぐにでも、自分たちと切断したいから。

これが「キャンセル・カルチャー」のような形が、世界中に広がっている理由の一つでもあります。しかし、この欲望こそが僕らに単純化された「クリーンな現実B」に取り込まれる隙を生み出してしまうわけですよね。

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今僕らに求められているのは、継続性を完全に切断するのでもなく、過去に固執するのでもない、もっともっと異なるアプローチなんだと思います。

具体的には、継続性を保ちつつ、再出発するための「訂正する力」を発揮し続けること。

でも、人間は弱い。時には一時的に立ち止まり「物語」に浸ってもいい。でもそれは必ず開かれたものであること。その立ち止まる体験から、別の角度から眺められる力を養うこと。

そして、常に問い続け、一つの物語に安住しないこと。

それが僕の現状考えるところです。

そして、先日おのじさんが言及してくださった「後ろ向きの北極星」の話なんかもまさにここへとつながっていく。

どこまでも抽象的な話をしてしまったので、とてもむずかしい話だと感じられたかもしれませんが、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。