昨日、三浦さんがTwitter上で「弁証法」について言及してくれていました。
このWasei Salonを通じて、学んだことのひとつであるというふうに。これが本当に嬉しかったです。
そして、とても嬉しく感じると共に「やはりこれくらいの時間がかかるものなのだな」とも、なんだかとても強く実感しました。
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弁証法については、僕が2020年頃からサロン内のブログで言及し始めたことだと記憶しています。
三浦さんとは、それ以前からずっと比較的近い距離感で、お互いの考えに耳を傾け合う関係性ではあったと思っています。
それでも、このような概念を僕が提示し、繰り返し、もういいよと思われるような場面においても言及し続けて、相手にちゃんと届くまでには3〜5年ほどかかるわけですよね。
もちろん、これは決して驚くことではないと思っていて、本来自分が「本当に大事なこと」だと確信して発信していることは、最初はまったく届かないのが普通であり、当然のことなのだと思います。
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さらに、この現実というのは、僕らに非常に重要な問いを投げかけてくれているなあと思います。
それは一体何かといえば「それでもなお、自分の信じる主張を続け、問い続ける覚悟があるか」ということなんですよね。
ここで、一般的に多くの人が陥りがちな罠もあると思っています。
それは、「伝わらないだろうから」と諦めてメッセージを「わかりやすく」改変してしまうことなんです。
ただ、くれぐれもここで誤解しないでいただきたいことは、相手にとってわかりやすく説明すること自体は非常に重要だということです。
問題は、わかりやすくする過程の中で「本来の目的や本質から逸脱してしまうこと」にある。
少しでも早く相手に伝わってほしいからという理由から、その「わかりやすさ」を追求するあまりに、時として僕らは相手の理解力を軽視したり、「どうせ伝わらないのだから」と、自分に都合のよいように情報を操作したり、断言をしてみせたり、相手をコントロールしようとしてしまう。
これは、間違いなくコミュニケーションの本質を見失った態度だと言えるはずです。
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これは最近話題にした「修学旅行に京都につれていくのは正しいのか」問題にも通じる話だと僕は考えています。
そもそも修学旅行の目的とは一体何だったのか。
「どうせ子どもには、歴史や文化はわからない」という前提に立ち、目先の子どもの満足だけを与えようとする姿勢は、長期的な教育の視点を完全に失っているように思います。
このような功利主義的な発想、つまりその瞬間における「最大多数の最大幸福」を追求するアプローチは、一見すると合理的に見えるかもしれませんが、しかしそれは必ずしも未来につながる価値を生み出すとは限らない。
むしろ、真の教育や成長の機会を相手から奪ってしまう可能性さえあると思うのです。
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また、そもそも論として、自分自身が今まさに気づいた「大切なこと」が一度や二度の説明で他者に伝わるはずがないのです。
だって、自分自身もまさに長年にわたってそれから目を逸らし続けてきたわけですから。
自分が何年もただ黙って見過ごしてきたものにやっと気づけたからと言って、相手が自分の一言や拙い説明によって理解できると考えるのはあまりにも楽観的すぎる。
だからこそ、本当に大事だと思うことがあれば、それを様々な角度から、何度も繰り返し語り続けることが重要なのでしょうね。
同じメッセージを、異なる文脈や表現を用いて、本質を損なうことなく伝え続けようとすることで、相手の理解を徐々に深めていく過程がとても大事なんだろうなあと。
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で、今日のこの話題に関連して、社会学者の大澤真幸さんが著書『私の先生:出会いから問いが生まれる』の中で述べてられてた話が、とても印象的でした。
それは、「先生とは問いを与えてくれる人だ」というお話です。
大澤さんは通常の「先生」と、真の意味での<先生>を区別しています。一般的に「先生」とは、私たちより多くのことを知っている人、答えを持っている人を指します。
しかし、大澤さんが言う<先生>は、全く異なります。<先生>は答えを与える人ではなく、問いを誘発する人だと語るのです。
<先生>と話をしたり、<先生>の著作を読んだりすると、次々と新しい疑問が湧いてきて、既に知っていると思っていたことさえも新たな問いの対象になるのだと。
なぜこのようなことが起こるのかといえば。それは<先生>自身が常に問い続け、疑い続けているからです、と大澤さんは語ります。
つまり、<先生>は「すでに知っている人」ではなく、むしろ「問う人」「疑う人」なんですよね。
この大澤さんの視点は、ものすごくハッとさせられるし、僕らが一体誰から学ぼうとするべきか、そしてどのように学ぶべきかを考える上でも、非常に重要な要素だなあと思わされます。
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また、過去に何度もご紹介してきた『宗教のクセ』という本の中で語られている「メンター」の概念も、この文脈において深く結合する部分があるなと思います。
内田さんと釈徹宗さんは、カルト宗教のような危険な思想に騙されないためには、「自分にとってのメンターを見極める力」が必要だと主張しています。
自分の前に現れた「先達らしき人」が、本当に信頼できる導き手なのかどうかを判断する能力が求められると。
しかし、これは冷静に考えると非常に難しい課題なわけです。なぜなら、メンターから学ぶためには、ある程度自分の価値観や判断基準を一時的にでも脇に置く必要があるから。
つまり「自分が知らないことについて、適否の判断を下す」という、論理的には矛盾した作業を行わなければならないんですよね。
優しく近づいてくる人がいれば、その人の真意を正確に判断することも難しくなる。しかも、近づいてくる人自身も、心から善意のつもりだったりするので、状況はより複雑になってしまう。
まさに「地獄への道は善意で敷き詰められている」という言葉が見事に当てはまるような状況です。
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では、どのようにして信頼できるメンターと出会えばよいのでしょうか。
内田さんによれば、信頼できるメンターとの出会いは、すべて「偶然の産物」だったと語ります。「図らずも」出会ってしまうもの。無作為な出会いが、メンターとの出会いには重要だというのです。
むしろ、お互いにその気もなかったのに、気がついたら協力し合って歩いているような関係性こそ、真のメンターシップの基盤となる可能性がある、と。
内田さんは、このような関係性を「気がついたらその人の後ろを歩いている」と表現していて、「ついて行ってもいいですか?」と尋ねると「ついて来たければ、ついておいで」くらいのカジュアルな感じで受け入れられると語ります。
そんな軽やかで自然な関係性が、本当の意味での学びと成長を促進するのではないでしょうか、と本書の中で語られていて、これは全力で同意したくなるようなお話です。
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で、ここでくれぐれも誤解しないでいただきたいのは、僕自身が誰かの<先生>やメンターになりたいと主張しているわけではないです。
そもそも、このような関係性は常に結果論だと僕は思っています。
後から振り返ったときに初めて、そのような関係性になっていたと遡及的に振り返って気づくものなわけですよね。
実際、大澤真幸さんの本の中でも、ハンナ・アーレントやルソー、ドストエフスキーやミヒャエル・エンデなどが<先生>だとして紹介されています。
もちろん、大澤さんがこれらの人々と直接的な関係を持っていたわけではありません。しかし、彼らの著作や思想が大澤さんに深い影響を与え、新たな問いを生み出す触媒となったわけです。
でも、これこそが理想的な知的系譜の形成過程だと思います。つまり「縦の系譜」そのもの。
思想や知識の伝承というのは、このように自然に、でも確実に次の世代につながっていくものだと思うのです。
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さて、そう考えてくると、僕たち自身にできることも次第に明確になってくる。
それは、自らの身を持って、毎日毎日、淡々と問い続けていくこと。
無理やり「こっちを向け!」と相手に迫るわけでもなく、詐欺師のように取り入ろうとするのでもなく、ただ淡々と自らの持ち場において、情理を尽くして、そこで得られた仮説と新たな問いを語り続けること。
このような姿勢を貫くことで、周りの人々に3〜5年程度で、何かが少しでも伝わるかもしれませんし、自分が死んでしまうときまで一切何も伝わらないかもしれません。
しかし、それでも届いたらいいなという祈りのもと、毎日この営みを続けるしかないと思うのですよね。
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重要なのは、「教えよう」とする姿勢で相手に迫らないこと。
なぜなら、教えようとする姿勢は、自分が答えを持っているという前提に立ってしまうから。
これは一般的な学校教育に慣れきっていると、ものすごく変な話に聞こえてしまうかもしれないですがこれは本当にそう思います。
真の<先生>やメンターは、常に問い続けている人なんですよね。
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最後に、最近もまた、個人的には非常に重要な問いをここに書き綴って、Voicyでもお話しているつもりなんですが、Wasei Salonのメンバーに全く刺さっていない、全然理解されていないことが、かなりの割合あることも、書き手としてとても強く痛感しています。
これもすべて、僕の説明力不足の問題です。
その中でも書き続け、Voicyで話し続けるかどうかが、きっと僕には問われているのだと思います。これもまた、数年後には誰かの心に届けばいいなと静かに祈りながら。
もちろん今日のこの話も、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの参考となっていたら幸いです。
2024/07/15 20:50