僕は「この作家、どうしても気になる」と思ったら、その作家がこの世に出した作品をなるべく片っ端から見ていくようにしています。

ここで言う作家とは、書籍の作家に限らず、映画でも、マンガでも、創作物でも何でも、です。

ときには、その作家の生誕の地にも実際に訪れてみて、「彼(彼女)がどんな景色や情景をみて、その感性を育んできたのか」そのアイディアソースを自分の目で見にいくこともあります。

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もちろん、単純な「おもしろさ」で言ったら、世間で話題になっている他の作品のほうが、圧倒的におもしろいことは間違いありません。

自分が、その作家を知ったきっかけも、きっとそのような世間の話題作として触れたことがきっかけのはずですから、その作家の集大成である場合も多い。

それ以上ずっと同じ作家を追っていても、その集大成を超える作品に出会えることはなかなかに難しいことです。(もちろん大きく超えてくる場合もある)

しかし、それでもあえて、初期のころの荒々しい段階の表現だったり、晩年の悟った表現にも触れてみることで、「なるほど、だからこの作者は、この表現をしたのか」と腹落ちすることができるようになると思うのです。

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往々にして、その作家にとって本当に大事なことや、どうしても伝えたいことは、何度も何度も手を替え品を替えて作品内に登場してきます。

その表現手法や見せ方も、時の経過と共に次第に変化していく。

この過程全体を追うからこそ、そのひとが見据えていたものが多面的に伝わってくるのだと思うのです。

作品単発で眺めていても、絶対に伝わってこない何かが伝わってくる。

そうやって得られた自己の気づきや発見のほうが、自らの血肉にもなっていくように感じます。

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この点、これから日本には桜の季節がやってくるので、少し桜の木に喩えて考えてみたい。

いまこの瞬間に咲き誇っている満開の桜というのは、本当に美しいものです。

でも、そんな満開の桜ばかりを見ていても、桜の全体像というのは見えてきません。

まだつぼみの状態の桜も見に行ってみる、完全に散った状態の桜も見に行ってみる。

そうやって、固有の一本の桜の木を季節を通して眺め続けてみたほうが「桜」そのもの、桜の本質は理解できると思うのです。

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世間には、今日もどこかで「満開の桜」が咲き続けています。

それはベストセラーランキングや口コミサイトのようなものを見れば、一発ですぐにわかる。

そのように、満開の桜を追い続けていることは本当に刺激的で楽しいことでもあるのですが、「この桜だ!」と思ったら、丹念にその一本の生涯を観察してみる。

そうすることで、その桜が満開のタイミングで、本当に表現したかったことは何かも見えてくるのではないかなと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにも、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。