最近よく思うのは、AIが好きなひとは何のためらいもなく、どんどんAIシフトしていく一方で、苦手なひとはもうまったく触ろうとしない、ということです。
その分断の広がり方は、ネットやスマホの比ではないのだろうなと感じます。
お金や資本主義にも似たようなことが言えるし、都市とローカルのあいだにも似たような対比がある。もはやお互いに分かり合おうなんて気はさらさらなくて、ほんとうに大きく深い川のような隔たりが生まれてしまっているなあと思うのです。
全部を救うことは不可能でも、どうにかそこに橋をかけたい。
今日はそんなことを考えながら、このブログを書いてみたいと思います。
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ただ、こう書くと、AIを使いこなしている側から「みんなも早くこっちにおいでよ」と呼びかけているように聞こえるかもしれません。
でも、まったくそういう話ではなくて。
正直に言えば、僕も世の中の9割のAIの使い方は、ほんとうにクソだと思っています。なんなら、自分はAI否定派なんだろうなとさえ思う。
とはいえ、インターネットを否定していたら、もはや現代で生きていくのが困難なように、AIの普及も不可逆であり、不可避です。
全員がAIなしでは生きられない世界が必ずやってくる。というか、すでにそうなっている。使わないという自由は、もうほとんど残されていません。
だからこそ、欲しい未来はつくろうって思っているんですよね。
9割のほうを「間違っている!」と批判するだけじゃなく、しょぼくても構わないから、あってほしい使い方を愚直に模索して、自分たちで実践してみる。
諦めるのではなくて、ほんとうに僕らが求める形でのAIとの付き合い方を、今こそ徹底的に探っていこうよ、と。
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で、この話を考えるときに、僕の頭にいつも浮かぶのが、宮﨑駿さんのことです。
2016年に放送されたNHKのドキュメンタリーのなかに、有名なシーンがあります。ドワンゴの川上さんから、人工知能に動きを学習させたという、人のかたちをしたものがゾンビのように這いずりまわるCG映像を見せられた宮﨑さんが、「生命に対する侮辱」という言葉まで使って、静かに、でも激しい剣幕で怒る場面です。
僕は、あの怒りこそが、宮﨑さんの創造性を深いところで担保しているのだと思っています。「こんなものではだめだ」と言い続けるひとだからこそ、あのジブリの作品たちが生まれてきた。
だから、時代に合わせてAIを受け入れていく、物わかりのいい優しいおじいちゃんになんて、絶対になってほしくないんですよね。
じゃあ、その頑固さを、誰がどうやって引き受けるのか。
そこで、プロデューサーの鈴木敏夫さんという存在が出てきます。
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鈴木さんがどこかのインタビューで語っていた話で、ずっと好きなエピソードがあります。
たしか『もののけ姫』をつくっている90年代ぐらいの話だったと思いますが、パソコン嫌いの宮﨑さんがいるスタジオに、どうやってパソコンを入れるのか。
鈴木さんは、見た目がワープロにそっくりな機種をわざわざ選んでスタジオに持ち込んだ、というのです。これはパソコンではなくワープロだ、と言い張って。
鈴木さんは、宮﨑さんに対して、正面から「これからはコンピュータの時代ですよ」と説得したりはしない。
かといって、宮﨑さんが嫌がるからと、新しいテクノロジーを導入することを諦めることもしない。
やんわりと、のらりくらりとかわしながら、必要なものは、いつのまにか現場に整っている状態をつくり出してしまう。
もちろんこれは、長年の信頼関係があるふたりだからこそ成り立つ話で、相手をうまくだませばいい、ということではありません。
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もうひとつ印象的なのは、2016年のインタビューで、鈴木さんご本人が語っている話です。
長編映画からの引退を表明したあと、暇を持て余して雑談ばかりしにくる宮﨑さんに、鈴木さんは、短編ならどうですか、やるなら『毛虫のボロ』ですか、と水を向けた。
すると宮﨑さんは、こっそり温めていたことを先に言い当てられて、怒ったそうです。
しかもこの『毛虫のボロ』は、もともと『もののけ姫』の頃に宮﨑さんがやりたがって、鈴木さんが反対した企画でした。
つくるなら、もっと年を取ってからがいい、と。
それをおよそ20年間、ずっと覚えていたわけです。
そのうえで鈴木さんは、これをCGでつくってみたらどうかと勧めます。理由は、やり方が変われば、新鮮な気持ちで向かえるんじゃないかと思ったから、だと。
ここが、ほんとうにすごいなあと思うんです。
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テクノロジーを持ち込む理由が、効率のためでも、時代に乗り遅れないためでもない。
目の前のこのひとが、もう一度つくりたくなるかどうか。鈴木さんは、そこだけをずっと見定め続けてきたわけですよね。
さきほどのAIゾンビの映像に宮﨑さんが怒ったのも、まさにこのCG短編に取り組んでいた時期のことでした。
つまり、新しい道具を受け入れることと、怒りを手放すことは、まったく別の話なんですよね。
鈴木さんは、宮﨑さんの怒りには手をつけずに、道具だけをそっと横に置いた。しかも、一緒につくる相手として鈴木さんが挙げたのは、ピクサーのスタッフか、日本の若いCGスタッフか、という選択肢でした。CGを扱うのは、宮﨑さんさんではなく、最初から別のひとたちだったんですよね。
そう考えると、相手を理解することと、相手の言うとおりにすることも、やっぱり別なのだと思います。
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相手を説得するのではなく、相手の可能性をよりひらいてもらうために、世の中のテクノロジーやトレンドを使うこと。
創作者や職人が、それを自分自身で使いこなす必要はまったくないのだと思います。
むしろ、本人が「これからの時代に生き残るために」と無理に使いこなそうとすると、いつのまにか「自分がつくりたいもの」よりも、「この道具でうまくつくれるもの」のほうに、自分を合わせはじめてしまう。
新しい道具を覚えて、発信をして、売り方まで考えているうちに、自分のなかで先に折り合いをつけてしまうんですよね。
譲れなかったはずの基準が、誰にも気づかれないまま、少しずつ後退していく。それがいちばんもったいないし、やっちゃいけないことだと本当に強く思います。
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だからこそ僕がよく思うのは、創作者とプロデューサーは、兼務するとろくなことにならないということです。
ふたりに分かれていれば、折り合いのつかなさは、ふたりのあいだに残り続けます。
そして、いい意味で、お互いに、全力で相手のせいにできる。
でも創作とプロデュース、両方に自分が責任を持ってしまうと、その矛盾に対して自己が耐えられなくなる。
ジブリも「それは鈴木さんが勝手に言ったこと」「それは宮さんが勝手に言ったこと」って、お互いに相手になすりつけ合えれば、逆説的にうまくいく。(もちろん、その間に高畑勲という更なる天才がいて、三すくみ状態だったわけです。)
そのなすりつけ合いこそが、ほんとうに「つくりたいもの」をつくることを守ってくれている。
「人と人とは支え合って生きている」という使い古された言葉を、僕はこういうところで実感します。
同じ意見の者同士が組む必要なんて、まったくないんですよね。
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そしてこれが、いまWasei Salonで始めようとしている「通い編集者」という企画に、そのままつながっています。
好きなお店や、誠実な仕事をしているひとのもとに通って、対話を重ねながら、その発信や編集を、AIも使って支えていく。
そんな仕事のあり方を、メンバーのみなさんと一緒に問い続ける場をつくろうとしています。
AIに詳しいひと同士で組めば、たしかに話は早いです。でも、その力がほんとうに必要とされているのは、「AIなんて」と思っているひとのもとなんじゃないか。
そのひとが何に手間をかけ、何を省略したくなくて、何に対して怒っているのか。まずは通いながら、それらを丁寧に知っていく、その過程。
そして、その背後や奥底にある、哲学や信念のほうにじっくりと耳を澄ませてみる。
そのうえで、そのひとの創造性がいちばん発揮される環境や場、その循環自体を整えていくことが、これからの時代の伴走役(編集者・プロデューサー)の役割なんだろうなあと。
だとすれば、AIを使うのは、作品や商品そのものじゃなくていいと思うのです。
予約の案内でも、記録でも、事務でも、本人が手を動かす時間や創造性を守れるところがあれば、そこで淡々と使えばいいのだと思います。
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さきほど冒頭で、「使わないという自由は、もうほとんど残されていない」と書きましたが、誰かがその接続の部分を引き受けてくれさえすれば、本人は触らないまま、自分の仕事を続けていくことができる。
現代において、ひとりでは持てなくなった自由も、ふたりでなら、まだ持てる。
そして、この企画の課題図書の候補に、鈴木敏夫さんの『仕事道楽』を選んだのも、まさにそれが理由なんです。
よくよく考えてみれば、鈴木さんはもともと、雑誌『アニメージュ』の編集者でした。
ジブリの専属になるまでは、雑誌の仕事と並行しながら、宮﨑さんたちの映画づくりに通いながら、関わっていた。
文字どおり、「通いの編集者」だったわけです。
そして、気づけば、ジブリのプロデューサーという役を、なんとなくの流れで引き受けることになった。その瞬間に「内の人」になった。
ここには、本当に学ぶべきことがたくさん隠れているなあと思います。
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最後に、結局、ブログ時代から、SNSやウェブメディア、オンラインコミュニティを経て、僕がやろうとしていることは、ずっと一緒なんだなあと思います。
このクソみたいなインターネットに、少しでも、自分たちがほんとうに欲しかった世界を、現実のものとしてつくり出したい。
理想を忘れない現実主義として、です。
川の両岸に暮らすひとたちが、同じ意見になる日は、たぶん来ません。そして、来なくてもいい、とも正直思っています。
それでも、「AIなんて」と思っているひとの仕事や、そのひとが大切にしているものまで、未来から失われてほしくはない。
橋をかけるというのは、向こう岸のひとをこちらに連れてくることではなくて、こちらから積極的に通い続けることなのだと思います。
助け合えば、お互いに生き残ることができるけれど、お互いが相手を敵とみなし、コストだとみなし合えば、お互いに死ぬ。それがまさに今のフェーズ。
だからこそ、意見が異なる者同士がちゃんと手を取り合って、お互いの信念や哲学を変えることなく、助け合っていけるための方法が何かを愚直に問い続けて、ソレを実際に形にしていきたい。どれだけしょぼくても構わないから。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。
2026/10/06 13:36
「AIなんて」と怒るひとの隣にこそ、AIを使えるひとがいたほうがいい。
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