スペイン人は親切な人が多い、とよく言われている。
いわゆるステレオタイプではあるが、確かに困っている人をサクッと助ける人を見かけることは多い。大都市でも、地方都市でも、なんというか、ほんとに自然に人を助けて、皆さっぱりと立ち去っていく。助けられる人も、気兼ねがないように見える。気兼ねがないからこそ、助ける人も助けやすいのかもしれない。
ステレオタイプで決めつけず、目の前の人を見て、自分の言葉で語れるようでありたいと思う。同時に、あらゆる先行的なイメージを、差別やステレオタイプによる"悪"で撤廃すべきものだと決めつけてしまうのは、果たしてそれでいいのかとも思う。
「これは差別だからしてはいけない」と、自身を省みて、過剰に罰そうとしている人を見ると、"誰かが傷付いた"とか、"そういう自分でありたくない"といった気持ちの前に、"してはいけない"のルールから外れること自体に目を向けているように思えてくる。"してはいけない"を決めたのは誰なのだろうか。傷付ける、傷付けないの2択を自身に迫る前に、できることはないのだろうか。自身のまなざしを自身で蔑ろにしてはいないのか。
人を見つめるまなざしというのは、希望であり、"してはいけない"の呪縛から離れた場所にあるものであってほしいと、いつも思ってしまう。
ある日、書店へ行こうとバスに乗ると、乗ったそばからバスが動かなくなってしまった。どうやら、目の前で交通事故が起こったらしい。バスが直接関わったわけではなかったが、進路上に倒れている人がいるので、バスは動けないようだ。咄嗟に、近くを歩いていた人や、車で通りがかった人が続々と駆け寄っていく。バスの運転手は、満員の乗客に何かアナウンスするわけでもなく、バスを降りて駆け寄っていってしまった。
他の乗客と途方に暮れていたが、戻ってきた運転手がようやくアナウンスをして、結局しばらく動きそうになかったので、諦めてバスを降りる。書店はまた別の日に行けばいい。倒れている人をちらりと見て、立ち去る。スペイン語もわからず、既に人が足りている状態では出来ることもないだろう。倒れていた人はどうなったのだろうか。
歩きながら、野次馬について考えた。正直、この状況を写真として撮ったら、どのような感じになるだろうかと少しだけ思った。途方に暮れる人々、駆け寄る"親切"な人たち、職務をある意味軽やかに手放した運転手、倒れている人。それらを撮りたい気持ちもなくはなかった。だけどカメラは出さなかった。"してはいけない"ではなく、撮らないでおこうとただ思った。それに、たくさんの人に怪訝な顔をされてまで撮り切る情熱もなかっただろう。
スマホで動画を撮ってしまう、あらゆる野次馬に品がないなぁなんて思ったりしたが、改めて考えると、その人がそのとき、写真や動画に収めておきたいという気持ちと、自分たちが普段何かを撮りたくなる気持ちは、全く異なるものであるのだろうか。そういった情熱は、品性の問題というより、美意識なのかもしれない。
とはいえ、事故などで簡単にスマホを向けて動画を撮る人と、仲良くなりたいかと言ったら、別に全然仲良くなりたくはない。そうはいっても、そういう人が身近にいるかもしれない。むしろ、人間関係とは、そういった「えぇそりゃないぜ」といった気持ちと、尊重しておきたい気持ちの、割り切れないような何かがあるものかもしれない。
ただ、何を撮るかもそうだが、何を撮らないかが、その人のまなざしをよく表すのだと思う。そういったまなざしに惹かれるかどうかは、自分にとって、ものすごく大事なことだ。好き嫌いでも、善悪でもなく、まなざしに惹かれるのかという目線は、誰かに簡単には明け渡したくはないとは思っている。
他者のとある行動を見て、それだけで人間性を判断することはできない。そう思っても、この人はいい人で、この人は嫌なやつと切り分けてしまいたくなる。スペインで見かけた颯爽と人を助ける人はいい人で、助けなかった人は冷たい人と言えるのか。むしろ、助けなかった人について考えてみたい。
昔、都内のコンビニで友達と買い物をして、レジで会計をしていたとき、ガタン!という音が後ろから聞こえてきた。振り返ると、杖を持ったおじいちゃんが倒れていた。本人もその状況をよく理解していない様子だった。自分は咄嗟に駆け寄ったが、何をしていいのかわからず、あたふたしていると、店員や他の人がやってきて助けようとしていて、あたふたするだけの自分は、すっかり余剰要員になってしまった。
友達はその場から動かずに、その様子をじっと眺めていた。友達の近くに戻ると、「助けようとしてえらいねぇ」と言われた。そのときの自分は「この人ドライやなぁ」と思っていた。東京のど真ん中で生まれ育った人だからドライなんだなぁと。特に見下すわけでもなく、友達が東京出身であることを強く意識して終わった出来事だった。
だけど、思い返してみると、友達は東京出身でドライであるから、倒れたおじいちゃんを助けなかったわけではないのだと思う。自分に手伝えることはないと判断して、助けなかった。物事をじっくり観察できる人だから、きっと咄嗟にそう思ったのだろう。
実際のところはわからない。もしかしたら、面倒ごとに巻き込まれたくなかっただけかもしれない。ただ、どんな理由であれ、こうして"助けないこと"は、誰かに責められるものではないのではないか。"助けないこと"が、物事の帰結に残されているのは、実は豊かなことなんじゃないかとも思う。
何を助けて、何を助けないのかは、その人に委ねられるようであってほしい。見えない形の助けというものだってある。勇ましく助けようとする人に、胸が熱くなることもある一方で、自身の"正義"あるいは、大義名分を疑わない、それ自体に気付いていない状態の恐ろしさは実は計り知れない。みんなが助けているから、助けないことが悪であるのならば、その助けようという気持ちは、一体どこに向かっているのだろうか。
親切の度合い、という話を最近スペイン出身の人としていた。人種で語れるものではないが、あえてざっくり言うと、スペイン人も、日本人も、多くの人が親切である。ただ、スペインでは個人の判断として、人に親切にする。日本では社会の慣習として、人に親切にする。親切のあり方が異なる場合もあるのかもしれないという話だ。
たまに思ってしまう。日本人はなぜ災害のときは助け合おうとするのに、電車内でぶつかったときは謝れないのか。それは災害時は助け合う流れができていて、混雑する電車では喋る人が少ないから声を発する流れができていない。災害時に助けないことはあってはならない。助けなかった場合は責められるか、罪悪感を抱えることになる。何をどう助けるか、個人で判断することに、そもそも慣れていないのかもしれない。
流石にぶつかったらごめんぐらいは言えるような国であってほしい(ざっくり)とは思うが、助けない人、もしくはたとえぶつかって謝らない人だとしても、その人がどのような人であるのかは計り知れないものだ。好きだけど少し遠ざけたい。嫌いだけど気になる。そういった矛盾はあっていいのだと思う。
スペインの人はさっぱりと人を助けていてええなぁとか、個人の判断が優先される傾向にあるので、何かミスをしても気楽に過ごせるとか、この国で暮らすことの居心地の良さは体感している。だが、これは文化で済む話ではない。たとえ、どのような国で暮らしていても、"助けないこと"が帰結に残されている。そのような見方で生き続けてみたいと思う。
恐れは想定外に陥ったとき、自身の素直さを覆い隠そうとする。だけど、いつだって、ままならないまま、時間は流れ、はたらき、ぐるりと旋回するように生きていく。人々は螺旋のような軌跡を辿る。孤独も同じではないか。孤独という螺旋を巡って生まれた言葉は、剥がれ落ちるように書きつけることで、恐れや人々と共存していく道を紡いでいくのだと思う。「ままならず螺旋する」は、はたらくことと書くことを繋げる自身の試みであり、恐れや人々と共に生きていくための探求の記録である。
パプリカを強火で焼くと、表面の皮が剥けるようになって、甘みとジューシーさがグッと増して、美味しすぎる別の食べ物になることを知った。今の家のキッチンは夕食を作る時間になると、いい感じに光が差し込むので、料理もさらに楽しい。「食べるために生きている」と言ったりするが、やっぱり生きるための営みとして、食べることがあるのだと思う。