昨日も話題にあげた「コミュニティメンバー同士で音声配信をしてお互いの声を聴き合うこと」について。
これはきっと、非同期型の「対話」なんだと思いました。
なぜそう思ったのか。
今日はそんな理由を以下で丁寧に書いてみたいなと思います。
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この点、対話の一番重要なポイントは、相手の話を最後まで聞き切ることだと僕は思っています。
これは僕が、自分自身で対話型オンラインコミュニティを運営してみて、実体験の中で得られた一番の大きな学びのような気がしています。
対話のキモは、間違いなく「相手の話を最後まで聞き切ること」であることは間違いない。
その間に、決して食い気味に割り込んだりしてはいけないし、相手が言い終わることを急かしたりしてもいけない。もしそんなことをしてしまったら、それはもう議論です。
「相手にドライブをかけるバフのような横からの支援」の中でも書いたように、決して侮辱されたり、攻撃されたりしない空間の中で、お互いの話を最後まで聴き合う文化を醸成できているかどうかが、対話の成否は決まるなと思います。
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そして、今の「スタエフやろうぜ!」の流れは「音声配信の非同期型においても、ソレをやろうよ!」ってことだと思ったんですよね。
誰もが急いで時間がない現代社会のなかでも、なんとかそのような関係性を捻出するための方法とも言えそう。対話自体が、ものすごく稀有な体験なんだと思います。
有益な話ではなくても、たとえ倍速であっても、お互いに最後まで聴き合っていること。「あなたが言いたいことはそういうことなんだね」と話している内容の有益性ではなく、固有名で承認してくれること。
自分の話を最後まで聴いてくれているひとたちがいる、という安心感というかそのつながりが今、とっても大事な気がしています。
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それは何百人とか何千人とかいる必要はまったくないんですよね。
数十人、いや、数人程度でいい、本当にそれで十分なんです。
逆に、何百人と知らない聴衆が聴いていると思うから、そのひとたちにも分かる話をしなきゃいけないというプレッシャーに怯えて、どこかで聴いたことのある「定型句」の乱用に陥るわけですから。
これは、先日もご紹介した内田樹さんの『勇気論』の中で語られていた「自分のヴォイス」で語ること、という話が、とても参考になると思っています。
以下で再び本書から引用してみたい。
僕は学校教育で、特に国語教育では、子どもたちに「大きな声ではっきりと、自分の思いや気持ちを言葉にしなさい」という要請をしてはならないと思います。請け売りの言葉を理路整然と口跡明瞭に口にして、うっかりそれを先生にほめられたりしたら、それはその子の成功体験になってしまう。それから後、ずっと「請け売りの言葉を繰り返す人」になってしまうかも知れない。
「自分のヴォイス」で語ることは、言い淀み、黙り込み、前言を撤回し、同じ話をちょっとずつ言い方を変えながら繰り返す・・・・・・ということです。そして、それはたいていの場合、小さな声で、おずおずと語り出される。だから、学校の先生は子どもが「小さな声で、おずおずと語り出した」時を見逃してはいけないと思います。それはその子が「自分のヴォイス」を見つけかけた徴候だからです。忍耐づよく、じっと言葉が生成するのをみつめなければいけない。急がせてはならない。結論を求めてはならない。話の腰を折って、言葉の「定義」を求めたりするのは絶対してはいけない禁忌です。
まさにWasei Salonの対話会は、これが結実している空間だなあと思っています。
誰ひとり嫌な顔一つせず、黙って最後まで相手の話を聴くし、決して急かしたりしない。
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じゃあ、このように「自分のヴォイス」で語られるようになると、一体何がどう良いのか。
それぞれが、それぞれに「正直」に語ることができるようになることなのだと思います。
この点についても、内田樹さんが『勇気論』の中で続けて書いてくださっているので、合わせてご紹介してみたいなと思います。
僕が「正直」ということを学校教育におけるとてもたいせつな徳目だと主張するのは、「正直」こそが子どもたちをして「自分のヴォイス」の探求へ向かわせる力だと思うからです。僕たちが他人の口にした定型句、できあいのストックフレーズを繰り返そうとすると、そこに微妙な違和感を覚えます。自分の中に起源を持たない言葉なんですから、違和感があって当然です。だから、そのまま口にすることにかすかな抵抗を感じる。そのまま「再生」してしまうと、「言い足りない」か「言い過ぎる」か、どちらにしても、自分のほんとうに言いたいこととは「ずれて」しまう。その「ずれ」が気になって、なんとか自分のほんとうに言いたいことに近づけようとして、じたばたする。その「じたばた」を支えるのは「正直でありたい」という願いなんです。人が言い淀んだり、言い換えたり、同じことを繰り返し言い直したり、前言撤回したりするのは、「もっと正直でありたい」からなんです。
(中略)
この「じたばた」を継続させる力のことを僕は「正直」と呼んでいるわけです。それが人の知性的・感情的な成熟を可能にする。
このジタバタをして、少しでも自分にフィットする言葉を探そうとして、その作業を通しているうちに、人自分の中にある正直さを獲得し、その過程こそが、知性的・感情的な成熟を可能にしてくれる。
そして、それはコミュニティメンバー同士で、お互いに聴き合うことによって見事に達成されると思うんですよね。
他者を固有名として承認し、自らも同様に承認されることで初めて実現することだと思います。
それはどちらの作業も、ものすごく大事なこと。
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ここは意外と大事な点であり、誤解されやすいポイントでもあると思うので、ぜひ強調しておきたいのですが、相手の声を聞き切ること、そんな些細なことが相手を励ましたり、勇気づけたりする価値を、僕らはもっともっと理解したほうがいいと思います。
それは利他的であれとか、そういう話ではない。
結果として利他ではあるんだけれども、それこそが自分のためでもあると思うのです。
自らの成熟や成長を得られる契機は、自分が喋るときよりも、むしろ他者を固有名において他者を承認することの方に価値は存在していると思うのです。
なぜなら、まずは自分が受け取るから、相手にも受け取ってもらえると信じることができるようにもなり、その相手の得られた喜びを担保にしながら、自分自身も、ひとの前で語れるようになるからです。
だからこそ、「相互に聴きあう」という双方向のやり取りが必要なんでしょうね。
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このあたりは、とてもわかりにくい話をしてしまっている自覚は強くあるのですが、これは僕自身が対話型のコミュニティを始めてみて、ものすごく驚かされたことのひとつなのです。
ひとは、正直に話さなければと焦れば焦るほど、自分から正直な言葉は出てこないジレンマは間違いなく存在する。
そうじゃなくて、いま目の前のひとが正直に話そうとしている時に、急かさず、そこに正直な言葉が出てくると良いなあと祈りながら、ただ黙って耳を澄ませること。
それは決して、何かを搾取されているわけでもなく、反対給付義務が生じるものでもないはずです。純粋贈与の瞬間であって、この時間をやり取りしていること以上に人間の喜びはないんだろうなとさえ僕は思います。
間違いなく、それが豊かさであり、幸福であり、幸せと呼べるもののひとつであるはずで。
もっとわかりやすく言い換えると、多くの聴衆に聴いてもらうことが幸福だと思っていたら、それはとても大きな誤解だったということですよね。
よく語られる話で言えば「愛されるより、愛したい」みたいな話です。
そうすることで、成長する実感、自分自身が変わったという確かな手応を、ひとは獲得することができる。
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その結果として、そのような場所が自分にとっても、とても大事な場所になる。
以前も語ったことがありますが「好きだから大切にする、ではなく、大切にするから好きになる」の順番なんです、本当は。
だとしたら、集まった人々が「場」に対して敬意を抱きあうことさえできれば、そのような循環が自然とコミュニティ内に生ま始めてくるんですよね。
そして、そのような循環が行われているコミュニティが「成長」しないわけがないんです。
それはコミュニティの規模の拡大という話だけではなくて、その場にいる一人ひとりが小さくても確実に成熟していくわけだから、自分たちが正直でいられる場所は、メンバー全員にとって居心地の良い空間になっていくのは当然のことで。
そんな場にゴミが落ちていれば自然と拾うし、誰かが困っていたら素直に手を差し伸べる。決して相手から搾取しようとしない、むしろ積極的に与えようとする。
なぜなら私は、多くのものをすでに受け取っているから。
この時に重要なことは、そこに集う者同士がお互いに「贈与」の感覚を持てるかどうかだと思います。
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「お先にどうぞ」「私も与えてもらったから」
そうやって「聴き合う」という作業において、時間でさえも贈与し合える文化がそこに根付いているかどうかが、非常に重要になってくるのだと思います。
そこにこそ、コミュニティメンバー全員で成熟するチャンスみたいなものが生まれる。
それが今とても大事だなあと思う。
今日語ってきたような循環が起きている空間が、僕は本当の意味で心満たされる空間だと思います。
そして、非同期型の「対話」と呼べるような音声配信の取り組みは、忙しい現代人にとっては、ものすごくいいツールのひとつだと感じます。
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なんだか、いつも同じような話にたどり着いてしまうけれど、これこそまさに僕が正直でありたいと思うからずっと書き続けられることだし、少なくともこのサロンメンバーのみなさんがちゃんと読んでくれる、受け取ってくれる、と思うからこそ、書き続けられることでもある。
この空間があることが、かけがえのない豊かさだなあと思います。本当にどうもありがとうございます。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。