先日、Wasei Salonの中で『おやときどきこども』という本の読書会が開催されました。

https://wasei.salon/events/1292f0729a7f

この本は、福岡で学習塾を長く営み、たくさんの親子や子どもたちと日々向き合ってきた鳥羽和久さんの本です。

鳥羽さんは、単に勉強を教える人というより、子どもたちの言葉や揺れを受けとめながら、親との関係や学びのあり方そのものを考え続けてきた実践者なのだと思います。

実際、本書も、教育論や子育て論をきれいに上から整理した本というより、現場で出会った親子との具体的なエピソードを通して「子どもをわかるとはどういうことか」「親であるとはどういうことか」「大人はどこまで子どもに関われるのか」を、かなり切実に考えていくタイプの本でした。

読書会自体も、とても印象的な会となりました。

子育ての当事者として参加してくださった方もいれば、子育て当事者ではない方も参加していて、同じ本を読んでいるはずなのに、響く場所がかなり違った。

その違いが、そのままこの本の難しさでもあり、おもしろさでもあったようか気がしています。

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で、この本はとてもいい本だった、で終わらせることも、きっとできます。

実際、書いてあることの多くはその通りだと思いますし、こういう視点を持った大人が現場にいてくれたら救われる子どもも多いのだろうとも思います。

でも、読みながらどうしても引っかかってしまうところがありました。

それは、この本の中で保護者がずいぶん悪者っぽく見えることでした。

しかも僕が本当に気になったのは、そうやって描かれているにもかかわらず、読んでいるこちらまでがどこかで「うん、これはいい話だ」と納得してしまうことでした。

あの違和感は、たぶん本そのものに対する違和感じゃないはずなんです。

そういう物語を、かなり気持ちよく受け取ってしまう僕ら自身の側にも向けられるべき違和感なのだと思います。

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だからこそ、余計に引っかかった。

もし最初から全否定したい本だったら、たぶんここまで気にならなかったはずです。

この本は、ちゃんと大事なことを言ってくれています。かなり誠実に書かれています。

にもかかわらず、どこかで保護者のほうが単純な悪者に見えてしまう。その構図がずっと気になってしまいました。

赤の他人の親子の話を読んでいるはずなのに、結局読み手は自分の親との関係や、自分が親になった時の不安や、自分がうまくできなかった記憶のほうへ引き戻される。

だからこの本は万人に刺さる内容だし、だからこそ、気持ちのいい物語として処理しすぎてしまうと危ういのだと思います。

そして、もっと気になったのは、その構図を僕ら自身もかなり自然に受け入れてしまうことでした。

一体これがなぜだったのか、今日はそれを考えてみたい。

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なぜ僕らは、親がやや不器用で、先生が子どもの側に立って、最後に子どもが救われたように見える話を、こんなにも「いい話」として受け取りやすいのか。

まさに今日の一番の問いは、ここです。

ここには、読み手の側の願望や欲望もあるのだと思います。

もっと言うと、保護者であるかどうかにかかわらず、大人の側にはどこかで「叱られたい」「導かれたい」という気持ちがあるのではないでしょうか。

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こんな言い方をすると少し変に聞こえるかもしれませんが、不安が強いときほど、人は「あなたはここが間違っています」「こうしたほうがいいです」と、輪郭のはっきりしたダメ出しの言葉を欲しがります。

子育ては、その最たるものだと思うのです。

正解が見えない。これで合っているのかわからない。子どもの将来がすべて自分の手にかかっているようにも思えてしまう。

そういう強い不安のなかに置かれたとき、人は自由を求めるより、まず安心を求める。複雑なまま考え続けることより、一度でいいから「そう、それです」と言ってほしくなるんだろうなあって。

だから、正しいことを言ってくれる先生は、強いのだと思います。

子どもの気持ちを代弁してくれる。親の見落としをちゃんと指摘してくれる。しかも、その結果として子どもが少し救われたように見える。

そうなると、読み手の側も「先生のほうが間違いなく正しかったんだな」と納得しやすくなるわけです。

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でも、そこで僕は少し立ち止まりたくなります。

その物語は、本当に誰かを救っているのだろうか、と。

もちろん、現実には、親よりも先生や第三者のほうが見えていることも多々ある。

家庭のなかでは煮詰まりすぎて、距離感が近すぎて、どうしても見えなくなってしまうこともあります。だから、外から別の大人が関わること自体は、とても大事だと思います。

ただ、その大事さと、「先生が正しくて、親が間違っていた」という最初から勝敗のついた物語は、本当は少し違うはずです。

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にもかかわらず、子どもが「先生のおかげでした」と自ら言った瞬間、その物語はものすごく強力になります。

なぜなら、子どもの感謝は、ほとんど道徳的な正しさ、その証拠になるからです。

そこに反論することは現代人だったら、相当むずかしい。だって、子ども本人が「救われた」と言っているのですから。

でも、そのときにこぼれ落ちるものもある気がしていて。

親の側の不器用さ、余裕のなさ、経験の浅さ。もちろん、それらがあるからといって何でも免責されるわけではありません。

でも、そういう複雑さごと見ようとしないまま、「子どもを傷つけた親」と「子どもを守った大人」というきれいな構図だけが残るとしたら、それはやっぱり少し危ういなと思うのです。

僕が今回引っかかったのは、たぶんそこでした。

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支援とは、本来、誰かを悪役にして成立するものではないはずです。

いや、現実にはどうしても線を引かなければいけない場面もあるとは思う。明確に子どもを守るために、親から距離を取らせなければいけないことだってあります。

だから、何でもかんでも融和的に考えればいいとは決して思っていません。

ただそれでも、僕が気になるのは、「子どもの側に立つこと」が、あまりにも無条件の正義として流通しやすい現代社会に対しての違和感です。

子どもの味方をする大人は、正しい。子どもを叱る親は、間違っている。
子どもの声を信じる人は、善いひとだ、というふうに。

それ自体は、ある意味では健全なことでもあります。昔よりも子どもの権利が意識されるようになったのは、間違いなくよい変化だと思います。

でも一方で、その正しさが強くなればなるほど、親の側は語りにくくなってしまう。

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だから僕は、現代のように「子ども第一」は本当にいつでもそのまま正義であっていいのか、という問いを、いま一度ちゃんと考えてみたくなります。

これはもちろん、子どもを軽んじようという話ではありません。むしろその逆です。

子どもを本当に大切にするとは、親を単純な悪役にしないことでもあるのではないでしょうか。

親の未熟さや困難さを見ないまま、子どもだけを抽象的に守ろうとしても、現実の関係はそんなにきれいには変わらない。むしろドンドン理想的になっていく。

子どもも親も、どちらも人間です。その当たり前のことを、僕らは案外すぐに忘れてしまいがち。

しかも、自分の中に不安が強いときほど、「叱ってほしい」「正解を示してほしい」という欲求に引っぱられて、その忘却の気持ちよさに自らも乗ってしまうのだと思います。自らが批判されているにも関わらず、です。

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子どもの側に立ちながら、親にも勝たないこと。親の苦しさを見ながら、子どもの痛みも薄めないこと。

誰かをきれいな正義にしすぎずに、誰かを単純な悪にもしすぎず、それでも必要な支援や介入はちゃんとためらわないこと。

そんなことが本当にできるのか、僕にはまだよくわからない。

でも少なくとも、子どもたちが語る「先生のおかげです」という気持ちのいい物語だけで満足してしまうと、そのむずかしさを引き受けなくて済んでしまう、

そのことには、やっぱり少し警戒していたいなあと僕なんかは思うのです。

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読書会のあと、そんなことをしばらくずっと考えてしまいました。

僕らは、子どもの味方をする人を、なぜこんなにも簡単に正義だと思ってしまうのか。

きっと、これは自分自身に向けるべき問いであり、まだ答えはまったく出ていません。

ただ、この違和感だけは、簡単に手放さないほうがいい気がしています。これからも少しずつWasei Salonの中で、考えていきたいです。

本当に素晴らしい問いを与えてくれる本でした。気になる方はぜひ実際に手にとってみて欲しいですし、そのうえで、Wasei Salonの読書会のアーカイブなんかも合わせて観てみて欲しいなあと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。