最近、Voicyで哲学研究者・近内悠太さんの「身体的同期」のお話を聴いて、すごくおもしろいなと思いました。そして、やっぱりこれはいま考えるべきテーマだなとも感じました。


いま、身体性とかリアルな場とか、同じ時間をともに過ごすことの価値みたいなものが、あらためて見直されている感じが強くあります。

それ自体の理由が、とてもよくわかる内容となっていました。

人は、理屈でわかり合う前に、まず身体で「一緒にいる」を感じているのだと。

たとえば、一緒に歌う、一緒に拍手する、一緒に食べるなど、身体的同期が先にあって、そこから何か自分の意識を生み出しているという感覚。

そういうことの積み重ねのなかで、「この人とは、なんとなくわかり合える」という感覚は着実に生まれてきたのだと思う。

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つまり、論理や情報交換の前に、もっと古い「リズム」のようなものがあったということなんでしょうね。

人類は、まず同じ火を囲み、同じ暗さを見つめ、同じ気配に耳を澄ませるところから、他者とともにいたわけです。

物語もまた、そうした共同体のリズムのなかから立ち上がってきたのだと思います。

村上春樹さんが何度も「洞窟の比喩」を出して、自分の文章は、リズムを重視していると採算強調することも、きっとそれが理由。

言い換えると、村上春樹さんの文章は、物語以上に「身体的同期」に訴えてくる文章かつ、その先にある「物語」だからこそ、僕らはこんなにも惹き込まれるのでしょうね。


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ただ、この話をそのまま「やっぱり身体性が大事ですよね」で終わらせる気には、どうしてもなれない。

なぜなら、身体的同期こそが、人間の失敗のかなり大きな源泉でもあったはずだからです。

宗教的熱狂や、政治的熱狂。軍隊や戦時中の同調圧力もまさにそう。

人は身体で深くつながれることは、間違いない。

でも同時に、身体で深くつながれてしまうからこそ、危険な方向にも一気に流れてしまうわけですよね。

誰かが熱くなれば、みんなが熱くなる。場がひとつの感情に染まれば、そこから抜け出すことは一気に難しくなる。

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ここまで考えると、近代がやってきたこともよくわかるなあと。

近代は、身体を否定したというより、身体の危うさを知りすぎた結果として、あえてそこから必死で距離を取ろうとしてきたのだと思います。

言い換えると、いまの社会のなかで大事にされているもの、でも同時に古臭く感じるものの多くは、身体の暴走を抑えるための工夫でもある。

どうしても3月になると、3.11以後の「海と人間」の距離感にあてはめて考えてしまう。

海の恵みは人間に必要不可欠。でも海に近づきすぎて、そこに安住してしまえば、津波にすべて持っていかれることもあるわけですよね。

だから人は、海から一定の距離を取ろうとした。畏怖の念を持ち、鎮魂し、境界をつくってきた。そして、さらに現代はそこに、鉄筋コンクリートの大きな防波堤までつくってしまった。

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近代の知性も、それに少し似ている気がするんです。

身体という海から距離を取ること。それは冷たさではなく、歴史を踏まえた防衛策でもあった。

で、たしかに防波堤があることによって、身体の驚異からは身を守ることができるけれど、それっていうのは極論「何のために人間は生きているんだっけ…?」ということにもつながってしまう。

「海から遠ざけられすぎてしまった日本人は、果たしてほんとうに日本人なのか…?」という根源的な問いにもつながってしまうわけです。

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正しくあることや、配慮すること、境界線を守ることや、非同期で無理なくつながること。どれも本当に大事だと思う。

でも、それだけでは、どこかで人は枯れていく。

だから「身体的同期」はやっぱり必要だよね、となって当然なんです。

コロナによるリモートワークとAIの二大革命が、そこにとどめを刺して、いま身体性のほうがこれだけ持て囃されているのだと思います。

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で、この感覚を考えていたとき、ふと、これはアルコールとカフェインの違いに少し似ているなと思った。

もちろん、アルコールを礼賛したいわけではない。でもどう考えても、人間の本質はアルコール的なもののほうにあることは間違いないわけです。

酔うことで理性が少しゆるみ、場があたたまり、知らない人同士でも一気に距離が縮まる、祭りや宴会や祝祭の場を支えてきたのは、まさにそういう力です。

ただ、そこには暴力も依存も混じってくる。だからこそ、アルコールは厄介。

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それに対してカフェインは、もっと覚醒的で、もっと管理しやすく、もっと機能的なわけですよね。

現代社会が、アルコールの様々な失敗から、こちらに寄っていったのもよくわかる。

この比喩で言いたいのは、どちらが善でどちらが悪か、ということではないです。

共同性にも、アルコール的なモードと、カフェイン的なモードがあるのではないか、ということです。

熱狂と危険を含んだアルコール的なつながりと、覚醒と安全を優先したカフェイン的なつながり。たぶん現代は、かなりカフェイン寄りの時代なのだと思います。

それはそれで正しいのだけれど、だからこそ今、ふたたび「アルコール的なもの」が足りないと思うし、惹かれてしまうということなんでしょうね。

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ただ、ここでもう一歩だけ深めて考えたいんです。

人は、ただ誰かと身体的同期したいから、集まるのだろうか、と。

本当はそのさらに一歩手前にある、別の欲求があるのではないか。僕はそこに、「センス・オブ・ワンダー」の問題が関係している気がしている。

つまり人は、本当はまず、世界に対して純粋に驚きたいのではないか。

死や生の気配や、理由のつかない偶然性、言葉になる前の何か大きなものへの畏怖の感情。

そういうものをひとりで抱えきれないから、人は場をつくり、儀礼をつくり、祭りをつくり、共同体をつくってきたのではないか。

身体的同期は、ある意味、その結果として生まれたものなのかもしれない。物語だってそうです。

つまり人は「同期したい」のではなく、もともとは「驚きを共有したい」のではないか、ということ。

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この流れを考えるうえで非常に参考になったのが、松岡正剛の神道論です。


僕が松岡正剛のブログを読んで、ハッとしたのは神道的なものは、教義や信条というよりも、世界の不思議さや畏れを受け止めるための形式として、日本の文化のなかに神道があったのではないかという、松岡正剛の指摘です。

その感覚は、宗教というよりも、もっと文化や感受性の作法に近かったのだと思う。

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しかし、国家神道の手痛い失敗によって、戦後は「政教分離」が厳格に行われた。

「神道」が“神教”として理解されすぎたことで、本来もっと文化や感受性のレベルで働いていたものまで、一括して切り離されてしまった。

その結果、日本人のなかにかなり深く埋め込まれていたはずのセンス・オブ・ワンダーの受け皿が一気にやせ細ってしまった。

その行き場のない欲望が、アニメ、マンガ、ゲーム、推し活、占い、スピ系の言説など、別のかたちへと流れ込んでしまっている。

もちろんそれ自体が悪いわけではなのですが、どこか「本来もっと別の受け止め方があったのではないか」というもったいなさや停滞感も残るわけですよね。

さらに現代には、「身体的同期」は幼稚であり、くだらないものという誤った印象がついてしまっているなあと強く思います。

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ただし、ここで再び「原点」に戻ろうとすると、すぐ別の問題が出て来てしまう。

原点回帰は、しばしば原理主義を呼び込んでしまうわけですよね。だから、危険だから触らない、排他的だから扱わないとなりがち。

危険を知っていること自体が、いつのまにかひとつの美徳になりすぎていないかと僕は思います。

そのことを、最近の僕は「寅さん」から学んでいたんだなとも思います。

寅さんは、決して模範的な人物ではない。雑だし、面倒だし、古臭いし、失敗もする。

でもだからこそ、正しさが過剰化した場、配慮が自己目的化した場、慎重さのせいで誰も前に進めなくなっている場のなかで風穴をあけることができる。

たぶん社会や共同体には、そういう存在が必要なんだと思います。原理主義ではない、でも無菌的な正しさでもない。

少し危険で、少し荒っぽくて、けれど生きた力を呼び戻してくれるもの。

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日本が、アマテラス系だけでなく、スサノオ系や出雲的なものまで完全には否定しなかった理由も、このあたりにあるのかもしれないなと思います。

秩序だけではなく、荒ぶるものも同時に抱える。清らかなものだけではなく、少し不穏なものも、決して排除しきらない。

中央だけではなく、周縁もなんとか引き受けようとする。その文化的な奥行きは、とても危うい。でもだからこそ同時に、とても強い。

危険なものを消し去るのではなく、なんとか文化のなかでそれぞれを統合しないまま、それぞれを抱えながら生きていく。

そのやり方に、日本のひとつの知恵があったのではないかと思うのです。

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いま僕たちは、正しさ(知性)と熱狂(身体)のあいだに立っているんだと思います。

慎重さは必要だった。でも慎重さだけでは、もう持たない。だからといって、昔の熱狂に戻ればいいわけでもない。

昭和的なものをそのまま復活させればいい、という話でももちろんない。

必要なのはたぶん、知性を経由したあとで、なお身体に触れ直すこと。

制度を通過したあとで、なおセンス・オブ・ワンダーを受け止める場を整えること。

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そして、少し危険なもの、少し荒ぶるものを、ただ排除するのではなく、どうやって共に抱えながら生きていくかを真剣に考えて実行することなのだと思う。

そのねじれを引き受けたまま、それでもなお、世界に驚けるか。

身体的な昭和と、知性的な平成という時代を経由してその両者を抱えたまま統合する令和への架け橋をつくっていくことが、今本当に強く求められているなと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。