「SNSでは誤解を受けやすいから発信しづらくなった」というのは、よく語られる話です。

でも、それは文脈依存のコミュニケーションが現代には増えすぎて、短文では文脈を共有できず、其の点で誤解を生みやすくなったからという理由に尽きる気がしています。

一般的な意見としてよく見かける「Xが殺伐としていて、劣化している」ということよりも、世の中の共通認識がドンドン減って、一方で高度な文脈依存型が加速しているだけという話でしかないと僕は思っています。

2010年前後の「あの頃は良かった」論は、当時はまだテレビや雑誌によって共通認識のズレがほとんどないタイミングでのSNSだったからであって。

だから、みんながひとつの話題について語っていられることができていて、みんなが揃って似たような話題を消費できた牧歌的な時代だったのも、当然のこと。

「その時の人々の人柄が良かった」など、そういう話ではないと思っています。

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これは別の視点から眺めてみると、Podcastのような音声配信や、オンラインコミュニティのような空間、そして推し活の数々が、なぜいまこれほど流行るのかといえば、それは「文脈の共有こそが命」であり、その文脈が「文化」として固着化・固定化されやすいからだと思います。

つまり、こちらも構造的な要因にすぎない。

それらの「(広義の)メディア」というのは、現代のような共通認識がなくなった時代においては、比較的コミュニケーションが取りやすいというだけだったりもするなと。

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で、この現象のおもしろいところは、ただ文脈を共有しているというだけで、お互いを「仲間」だとみなす、人間のこころのほうにあるよなあと思うのです。

たとえ性格や価値観がバラバラであっても、ある程度文脈さえ共有していると、お互いに信じ合えれば、お互いの性格や価値観など関係なく仲良くできる。

これは、わかりやすいところだと、母校や地元が一緒という理由だけで、なぜか親密になるというあの構造なんかが典型的だと思います。

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で、ここまで考えてくると、コミュニケーションの仕方の問題とか、多様性や寛容さなんかよりも、たぶん文脈、つまり「物語」を適宜適切に共有したほうがはやい。

そう気づいたから、昔の人々は古事記や風土記を整備したのでしょうね。

もしくは、芸能の数々によって「物語」をつくりだし、それをある一定の範囲で暮らす人々の共通認識に仕立て上げたわけです。

つまり、文脈を統一したかったからこそ、自分たちの国の建国神話をつくり出し、文脈を揃えようと努力した。それは本当に天才的なことだなあと思います。

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で、ここで少し話がそれますが、先日ゲンロンカフェの動画を観ていたら、東浩紀さんが「今の世の中には、バズとコネしかない」と語られていて、これは本当にそのとおりだなあと思いました。

これまであった、いわゆるな出世街道のようなものが、もう完全に存在しなくなった。

このレールに乗っておけば、人柄がどうであれ、能力さえ見合えば勝手に階層が上にあがっていくということはなくなった。

いま残るのは、バズとコネだけだと。

本当にそうですよね。

で、そんなのは不公平だ!不健全だ!と叫んでみたところで、今のテクノロジーの進化的に実際にそうなっていくのは、もう必定。

AIが及ぼすスキルや技能の無価値化というのは、つまりはそういうことだと思うのです。

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だとしたら、AIが進化すればするほど、その進化の一瞬の隙間を縫うようにして生まれてくる下剋上としての魑魅魍魎の世界≒バズと、各コミュニティごとの圧倒的なコネ社会になるんだろうと思います。

で、バズは文字通りバズだとして、コネのほうで重要になるのは「物語」や「コンテキスト」の共有だと思います。ここで前半の話とつながってくる。

AIのようなテクノロジーが発達すればするほど、努力や才能、スキルで差をつけるのが難しくなるのは当然で。

それでも、キワキワのスキルを求めてみたところで、もうあまり意味や価値はない。

それよりも、文脈依存型の物語をどれだけ共有しているかどうかが問われる。

「えっ、ホント!?」て思うかもしれないけれど、あれだけ恐れられていたフィルターバブルも、今や誰もが開き直っているし、昔ほど問題視もされなくなりました。

「まあ、そんなもんだよね、世の中って」となっていること自体に僕自身も驚くけれど、でも実際そうなっているから仕方ない。

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僕は、似たような論点として、2017年頃に「倫理観と誠実さを持ち合わせ、人柄が良くセンスあるヤツが勝つ時代。」というブログを書いたことがあります。


その予測は今や現実のものとなり、今日の話に引き寄せると、それぞれの「文脈依存」における「人柄の良さ」ということになるのだと思います。

それぞれの文脈で気に入られる「人柄の良さ」があるだけで、どちらにせよ、仕事というのは結局のところもう、「人柄」に回帰するのは間違いない。

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誰もが似たような成果物をだすのなら一緒に働きたいと思う人たちと、働きたいと思うはずですから。

お気に入りの人間が、目の前にいて欲しいと思うのは、人間の性なわけです。

そして「こいつにこそ、俺の(私の)持っている金と権力、影響力を与えたい」と思われるかどうか。

そのときの判断基準として「こいつは自分とどれだけ物語を共有しているかどうか」が最重要視される。

というか人間は、ずっとそれを望んできたのだと思います。

最近までは、社会構造的に単にそのような振る舞いが一時的に不可能だったというだけなんですよね。

なぜなら、能力至上主義が続いたから。言い換えると、本当はソレをしてきたし、したかったけれど、産業革命以降はさすがにそれだと生産性が低いとなってしまった。

生え抜きで優秀なヤツを採用しているような実力主義のライバルたちに負けてしまうと。

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でも、そのようなこれまでの社会で価値を持ってきたスキルみたいなものは、もうAIが担ってくれる。

それよりも、人間同士のつながりを円滑にしたり、文脈を紡いで「物語」を生み出してくれたりすることのほうが、よほど重要になるわけです。

だとすればきっと、コネだけでなく「世襲」のようなものもまたドンドンと復活してくるのもきっと間違いない。

今の小泉進次郎農林水産大臣なんかもまさにそうですよね。あの小泉大臣の今の状況なんて、まさに最強の「文脈依存体制」だなと思う。

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あとは、あからさまなルッキズムなんかも加速をしていきそうですよね。

これも文脈依存という意味で言えば当然で、外見とそこに含まれている情報が一番「物語」を理解していることを相手に直感的に伝えられるツールでもあるわけだから。

ある種、生きるには必要がない「ムダ」に対して過度に注力をして、意識して力を入れているということは、特定の文脈を既に共有しているという証、それが一瞬で判断がつくことでもわるわけだから。

文脈回帰や物語回帰は、つまりありとあらゆる分野におけるカルチャー回帰でもあるわけです。音楽、ファッション、アート、小説、映画など、あらゆる文化によって規定されていく。

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当然、そんなものは本質的ではないと、中指を立てるムーブメントも生まれてくる。

でもそんなカウンターカルチャーだって、結局は文脈依存的なんですよね。

なんなら、メインカルチャー(大きな流れ)にアンチテーゼ(反発)を唱えているわけだから、2つの文脈をより同時に理解しなければいけない分だけ、余計に文脈依存型に陥るとも言えそう。

つまり、これから重要になるのは、どこに所属し、どんなノリを共有し、何の物語として受容していくのか、ソレに尽きる。(今もそうだろう、と言われたらその通りなんだけれども、でもその比じゃない)

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で、このときに当然、風見鶏的にその明文化される前のカルチャーやノリを理解し、自らが体現をし、主流派に食い込んでいくことも大事だとは思います。

あえて現場に足を運ばないとわからないことはたくさんあって、百聞は一見にしかず、です。

現場でこそ文脈をいちばんカンタンに把握できるののだから、イベントや飲み会に参加し続けていることがコネを享受するうえで、ひとつの大きな価値になる。

そして、そこでフックアップされることを望む。若い人がこれから頭角を表そうとする場合はドンドンそうやって文脈を理解することに徹していくことになるのだろうなと思う。

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ただ、そうやって他人がつくりだしたカルチャーを追っている時点で、後追いも確実だとは思います。

それはいつだって一歩出遅れてしまう。そうじゃなくて、自分たちでつくるのが一番で、僕はそっちに興味がある。

本当に欲しい文脈や、今本当に欲しい物語をゼロから構築していくことのほうが、何周かまわって大切だと思うんですよね。

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そんなときに、くれぐれも注意したいことは、これまでのカテゴライズによるジャンルで区切らないことが本当に大事だなと思います。

コミュニティの時代だからと言って、ジャンルなど、既存のわかりやすいカテゴライズでコミュニティを構築しようとするひとも多いのだけれど、残念ながらそれだとなかなか機能しない。

たとえば「読書が好きなひとのコミュニティ」なんてつくった瞬間に、間違いなくそこには嫌なヤツも紛れ込んでしまう。

そして、嫌なヤツがひとりでもいる読書会は雰囲気も最悪です。

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そうじゃなくて、まだ明文化されていない文脈や物語を共有していくこと。

このあたりは、うまく言えなくてもどかしいですが、どれだけソレを抽象的かつ具体的に共有できるのかが本当に重要になっていく。

共にいたいと思えるひとたちに届く「メタ・メッセージ」をいかにしてつくりだし、それをちゃんと届けて、そこで自分たちのハンドメイドのカルチャーをつくっていく。

もちろん同時に、より大きな文化の流れや、歴史のなかに自分たちを位置づけていくこと、継いでいくことも、ものすごく大事なことだと思います。それが「宿命」の話なんかにもつながっていくわけですから。

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AIが人々の労働を奪い、バズとコネの二者択一の世の中に変化する中で、生き残る術を考えるときには、今日のような話はきっと避けては通れないんだろうなと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。