昨夜、三砂ちづる×内田樹×しみずしょうこ「となりまち人生相談室」「愛するってなんですか? 〜 赦し、赦され、生きていくために〜」というトークイベントに参加してきました。
実は、内田樹さんのトークイベントに足を運んだのはこれが初めて。ご本人を生で拝見するのも初でした。
リアルなイベントに、観客として参加するのも久しぶり。少なくともここ半年〜1年ほどは、他社主催のイベントはすべてオンラインで観ていたように思います。
でも、今年に入ってから、おふたりの対談本を何度かこのブログの中でもご紹介し、身体性を重視するおふたりの話を生で聞くなら、AIが台頭するこのタイミングだ!と感じ、思い切って足を運ぶことに。
今日はそんなリアルトークイベントの魅力について、昨日の自らの体験をもとにこのブログに書いてみたいと思います。
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では、具体的には何がリアルのトークイベントの魅力なのか?
それは、既に一度見聞きしたことがある同じ話でも感じ方が異なるということです。
今回のイベントのトークテーマは「愛」。
その話の流れの中で、学生たちとの向き合い方について話題が及んだとき、内田さんが各所で語られている「教育とは、自分のヴォイスを発見してもらうこと」というお話を語ってくれました。
僕なりに要約をすると、目の前の相手の能力を開花させるためには、何をなすべきか。それは「自分のヴォイスを発見すること」だと言います。
子供たち一人一人が「自分のヴォイス」を発見し、「自分のヴォイス」を獲得する過程を見守ること。
その時子どもたちは、言い淀み、黙り込み、前言を撤回し、絶句をすることもある。でもその言葉一つずつに聞き耳を立てて、忍耐強く話を聴いて、そのうえで「話の腰をおらない、要約しない、わかったって言わない」それが教師の役目だというのです。
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僕は内田樹さんの本は50冊以上、対談本も含めると、下手をすれば100冊以上読んでいると思うので、当然既に何度も何度も過去に見聞きしてきたお話です。
ブログでも以前ご紹介したこともあります。
だから、落語のように既に知っている話を、もう一度聞くような感覚。
でも、改めてご本人からリアルの空間で直接聞くと、まったく違うものに聞こえました。そして、今日始めて聴いたかのように、ついついアツく込み上げてくるものがあった。
「愛」という言葉を一切使わずに、ものすごく本質的な愛の話をされているなあと感じられて、知っているはずなのに、初めて聴いたような気持ちでグッと来た。
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そして、気づけばファシリテーション役をつとめていた、しみずさんも内田さんの隣で泣いていました。
その理由は、彼女自身も「自分のヴォイス」を内田さんから引き出してもらった、まさにその張本人だったから。
もともとしみずさんは、内田樹さんの大学時代のゼミ生だったらしく、引き出してもらったヴォイス、それが支えになって自分もここまでやってこれたのだ、と。
だから、自分も他者にそんな機会を提供できるようにと、このような連続型の人生相談イベントもやりたいと思ったんだと、語られていました。
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内田さんの言葉が「理想としての言葉」だけでなく、それを実践した結果、そこで得られた原体験を大切にしているひとが、まさに隣に存在していたというわけですよね。
これこそ「贈与の循環」そのものだなと思いました。そんなペイ・フォワードが目の前で展開されている瞬間でもありました。
そしてもし、リアルイベントでなければ、その重みさえも理解できなかったと思います。おふたりの存在、そんな身体的重みや時間的な広がり、そのような価値も含めて体感できた。
これは言葉だけでもわからないし、やっぱり同じ空間を共有して初めて得られる共鳴する感覚だと思いました。
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もちろん、「泣くことが良い」とか「泣けるから最高!」とか、そういう音楽ライブみたいな話をしたいわけではなく。
同じ空間を共有して、身体から込み上げくるものがあって、人間はそうやって無意識に共鳴してしまうっていうことなんだろうなと思ったという話です。
この感覚は、最近完全に忘れていたなあと思った。
一時期は、自分たちの会社でも毎週のようにトークイベントをやっていたような時期もあったけれどこの一体感は何者にも代えがたい。AI時代にはなおさら大切な感覚です。
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あと、三砂ちづるさんの覇気のようなものも素晴らしかった。
耳の痛い話も堂々と語ってくれて、一般論を否定をしつつも、そのうえで深く深く包摂をしていると感じさせるその姿勢。
三砂さんの書かれた書籍の中でも、もちろん至るところにそのスタンスが散りばめられているのだけれど、それが、会場でお話を伺っていると、より直感的に一発で伝わってくる。
お話する言葉では否定をしつつ、態度や身体性では包摂をしている。このブログでよく書くような文脈で言えば「包摂の中の否定」のような感覚です。
だから聴いている側も、耳の痛い話にも、しっかりと耳を傾けようと思える。
少なくとも、「排除の中の否定」の論理では決してないということが同じ空間をともにしているから、身体性を通してダイレクトに伝わってきた。
三砂さんの津田塾大学時代の教え子のみなさんもいらっしゃったみたいで、彼女たちの表情なんかを観ていても、なんだかそれが強く伝わってきた。こちらも、また共鳴させられたわけです。
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あとは、会場に集まる観客のみなさんを知ることができたのも大きかった。
僕が思っていた以上に、若い女性が多かったんですよね。
もともと女子大の教授を務めていたお二人だから、当然と言えば当然なのだけれど、でもラディカルなフェミニズム界隈からは、批判されがちなおふたりでもある。
だから、若い女性たちからは、避けられてしまいがちなのかなと思っていたけれど、まったくそんなことはありませんでした。
そういうイメージが、インターネット上の言論によって勝手に形成されているだけ。ちゃんと届いている若い人たちには届いている。
そしてそんな彼女たちから真摯な質問の数々がとても印象的でした。
いまご自身が自らの生活の中で直面している切実な悩みや問い、そんな人生相談がリアルに繰り広げられていました。
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この点どうしても、SNSや動画では声の大きい人たちばかりが目立ち、それが世論で、今の時流や空気、トレンドだと誤解されてしまう。
でも、本当はもっともっと実際の生活に即した人生が、それぞれにある。声の大きい人たちの極端な考え方というのは、その一部分に過ぎないわけですよね。
本当はもっと、みんな革新派と保守派のあいだで揺れ動いている。まさに「宿命性」と「揺らぎ」の話です。
それは先日、最所あさみさんと「九州コミュニティの深層」についてお話したときにも強く感じたお話です。そこに昔から続いているコミュニティや人間関係があって、実際の生活があるわけですよね。
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でもオンライン上になると、どうしても、それがイデオロギー論争になってしまいがち。
本来は、もっと生活に寄り添った、生活から生まれてくる葛藤があるはずなのに、極論ばかりが目立つようになる。
で、きっと真の人生相談というのは、どちらかと言えば自分のヴォイスを発見してもらうような取り組み。そうやって、お互いに耳を傾け合うような関係性なんだと思います。
そして、そのやり取りや循環の中で、ときにお互いを励まし合い、勇気づけて、何があろうとつながり続ける、安易に関係性を断ち切らないことに意味がある。
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これは逆に言うと、SNSや動画の場合には、イデオロギー論争になるのも当然と言えば当然で。
先に言葉ありきになるわけですから。目の前に相手は存在しない。
実際に目の前に相手がいれば、決して言わないような心無い言葉もぶつけられてしまう。言葉ありきで、身体的な威圧感や存在感がないからです。
しかし、目の前に相手の身体が存在すると「この人にも生活があり、人生がある」という圧倒的な事実がそこに立ちあらわれる。
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その有限性や不自由さ、宿命性を互いに認め合い、その中での「より良い」を探ろうとしていく。
そのときには、論理で白黒ハッキリさせることよりも、たとえグレーであったとしても、昨日より今日が、そして今日よりも明日が良くなることを素直に願い合うことができるはず。
それこそが敬意や配慮、そして親切心でもあるということでもあるなと思います。
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当然、「生活が大事」と言いつつ、そっちばかりに寄り添っていると、今度は本当の「善い」とは何か、そんな「事そのもの」にも出会えなくなってしまう。
ときには、自分の立場や身分を超えて、本質観取をするように考える必要もある。
そのような場において一人ひとりが考えたことが北極星のように機能し、自分の人生の向かうべき方角も定まってくるはずですから。
でもそこを一直線につなごうとしてしまうと、極論や排除の方向に向かってしまう。
目の前の生活やコミュニティが蔑ろにされてしまう。
だからこそ、行ったり来たりが大事だなあと思います。リアルな場の身体性や生活感覚に偏りすぎず、かといって観念的なイデオロギーにも偏らない。
このバランス感覚こそが、他者と健全な関係性を築き、そのうえで、より良い社会を模索していく上で不可欠なのでしょうね。
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改めて昨日は、本当によい機会でした。
今はせっかく東京に定住していることだし、気になるトークイベントには積極的に参加してみたいと思うし、改めて自分たちでも積極的に企画していきたいなと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。

2025/06/12 19:48