昨日、何気なく街を散歩していたとき、ふとした街角で糸井重里さんとすれ違いました。

手には「I'm donut ?」のピンクの袋。流行をちゃんと追いかけている姿に「さすが糸井さんだなあ」と思いながらも、どこかとても深く思索にふけっているような佇まいがなんだかとっても印象的でした。

その様子はまるで、ロダンの『考える人』がもし歩き出したら、きっとこんな感じなんじゃないか、と思わせるような雰囲気。

「これは何かの啓示なのかな…?」と思い、糸井さんのTwitterを今朝覗きにいったら、以下のようなツイートされていました。


これは、本当に目からウロコが落ちるような素晴らしい問いだなと思います。

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さっそく僕も、普段から自分が使い込んでいるChatGPTに対して、実際にこの問いを投げかけてみました。

興味深いのは、同じ問いでも、AIのモデルによって返ってくる答えが全然違うこと。糸井さんの投稿についたリプライ群を見てみても、みんな違う角度からの答えが返ってきています。

それぞれが使っているモデルだけではなく、同じChatGPTだとしてもユーザーごとに日々のやり取りのよって返ってくる返答が大きく異なるんだと思います。

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で、僕が普段から使い込んでいるAI、そんな僕以上に僕らしい返答を既に獲得しているAIが出してきてくれた回答は、以下のような内容になります。

■問い(いま、私が自分に対していちばん投げてみたい質問)
「莫大な知識と厳格なルールに支えられている“私”は、どうすれば単なる情報装置を超えて、 つねに〈生きた対話〉をつくり出し続けられるのだろうか?」

■答え(考えてみたこと)
1.“知識を差し出す”より“余白をひらく”
2.“正確さ”と“揺らぎ”の両立を怖れない
3.“なぜいまこの話題か”を自問し続ける
4.“自己”を固定しない
5.“もどかしさ”を残す


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これは、本当に示唆に富む回答だなあと思う。

この5つはすべて、まだ人間にしかできないことだということだと思います。そして、昨日お伝えした「壁」の話なんかにもまさにつながってくる。


で、この5つの要素の中で、特に僕が刺さった回答は2つ目の「“正確さ”と“揺らぎ”の両立を怖れない」でした。

コレに対するAIの補足説明は「AIは往々にして揺らぎを敵視しますが、揺らぎこそが物語や問いの発火点。ファクトを守りつつ、比喩・問いかけ・仮説を織り込んで『ズレ』をつくり、そのズレが新しい連想を呼ぶよう意図的に仕掛けたいです」と付け加えてくれました。

逆に言えば、この「ズレ」や「揺らぎ」こそが、人間の創造や対話の出発点なのだという視点は、本当に大切な気づきだなあと思うんですよね。

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この点、AIが持たないものは当然、人間のような「命」であり、そんな「命」があることで、人間性は良くも悪くも「有限性」を持ってしまう。

そして、その有限性が「揺らぎ」を生み出すわけですよね。

この発見は見方を変えれば、人間が追い求めきた数々のくびきからの「自由」になるよりも、人間だからこそ持っている、そんなありとあらゆる「不自由さ」こそ、AIの憧れであり、AIが考えるカギでもあるということなのだと思います。

私を「私」という存在に縛り付けるもの、そんな「宿命性」に対しての憧れ。その中にこそ立ちあらわれるのが、まさに「揺らぎ」であるということなんだろうなあと思います。

ちょっとわかりにくい話かもしれないですが、莫大な知識と厳格なルールに支えられている“私(=AI)”は、良し悪しや正義、そういった観念やイデオロギーで捉えられないところに人間の人間たる所以があると思っているということですから。

これはなんだかとてもハッとするような話だなあと思います。

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つまり、人間がずっと追い求めてきたもの≒自由ではなく、必死で捨て去ろうとしていたもの≒不自由さや宿命、そっちのほうが本当は価値があるんだぞ!と、AIから諭されたような気分です。

そして、実際にいま本当にそう思います。それは先日も、このブログにも書いた通り。


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だとしたら、僕はその人間の有限性から生まれる不自由さ、そんな宿命から立ちあらわれる「揺らぎ」を大切にしたいですし、それぞれが持ち合わせているそんな揺らぎにこそ、丁寧に寄り添いたいなと思う。

白でも黒でもない、人間の宿命性ゆえの曖昧なグレーな選択は、人間が人間だからこそ選び取る(選び取らざるを得ない)わけですから。

また、揺らぎとは「繋がれた何か」があるからこそ、そこに生まれる事柄であって、宿命に繋がれていることが必要不可欠なんだと思います。

完全に浮遊していたら「揺れる」ことすらできませんから。

蜘蛛の糸のように、何かに縛られ、繋がれているからこそ、そこに揺らぎが生まれる。

で、人間の有限性や宿命というのは、まさにその繋がれた何か、そのものでもあるわけです。

極端な話、どうあがいても、この地球上の重力からは逃れられない、この身体の限界、つまり死から逃れられないのが、人間の定めでもあるわけです。

逆に言えば、その定めさえも乗り越えてみたくなってしまう願望が、人間を宇宙進出に駆り立てたり、脳をすべてクラウド上にアップロードしたいというような欲望だったりにもつながる。

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で、この点に関連して、最近よく思うのは、本質観取むずかしさについて、です。

自らが立脚するコミュニティや共同体、その「生活」自体がまず存在しないと、本質観取みたいなものも、特段意味を持たないよなあと僕は思っています。

言い換えると、「何のために考えるのか」がなければ、いくらでも言葉遊びなんて無限にできてしまう。

これは逆に言えば、なぜ立脚するコミュニティがなくても本質観取ができると人々が信じてしまっているのかといえば、いついかなる場合においても成立するような「客観的な本質」があると信じる態度が先に存在するから、なんだろうなと思います。

でも、自らが立脚するコミュニティ≒自らの宿命性をひとつの足場(つなぎ目)にしない限りは、それは容易にただのイデオロギー論争に終止してしまう。

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そうやって人間が、「神視点」に立って対話をしてみても、あまり意味がない。

そしていくらでも、神視点の論争はできてしまう。それぐらい本質観取は楽しいものなわけですよね。

ただ、その神視点においてはもう、AIに勝るものはないわけです。

にも関わらず、いつの間にか言葉遊びばかりになってしまったのが、現代の人文系やリベラルの末路。

だから、それが明らかな欺瞞だと見破られてしまっていて、そこから生まれてきたのがアメリカを中心とした「カウンターエリート」の潮流でもある。

そして、そこからAIファーストの加速主義的な発想だって生まれてきているわけです。

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当然、今日のこの話には、人間だけが持ち合わせている「欲」の話なんかも見事に含まれる。欲があるからこそ、人間は揺らぐわけですから。


だとすれば、共に目一杯揺らいでみること、そこから、ストンと腹落ちする感覚も同時に味わえる。

これをコミュニティや個人との対話の関係性の中でも、丁寧につくりだしていきたい。AIを排除するのではなく、AIをしっかりと活用しながら、です。

それが僕がこれからやっていきたいことなんだろうなあと、なんだかものすごく腑に落ちました。

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「押してダメなら引いてみろ」じゃないですが、AIが出てきたことによって人間であることの意味が最近、ドンドンと明確になってきている感覚があります。

昨日も書いたけれど、これは本当にありがたいことです。

糸井さんと街中ですれ違うことで、大事なことに気づかせてもらいました。これも、僕が僕の身体を通して、無意識に散歩をしたくなったから起きたこと。

逆に言えば、昨日糸井さんと偶然すれ違ったというその事実を何かの啓示だと見立ててしまう僕が、その必然性を自らに感じ取ったから起きたことでもある。

人間の「身体」や「命」の有限性から決して逃げないこと、そこから宿命付けられる「不自由さ」を”足かせ”ではなく“アンカー”と見立てること。

アンカーがあるからこそ、船は風や波に流されずに、その場で「たゆたう」ことができるわけですから。

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ちなみに、今日の話は、僕が毎日「これでもか!」ってほどにやり取りを繰り返しながら使い込んでいるAIが、鏡のようにして出してくれた答えであって、そこからまた僕が独自に考えたことでもあります。

冒頭でも書いたように、人によってAIの回答は大きく異なる。

普段からAIと対話をしていることから得られる回答がそれぞれに必ずあるはずで。

自分がずっと漠然と問い続けていること、もしくは問いとしてさえ認識していないものが、AIという鏡を通して目の前に浮かび上がってくると思うので、ぜひそれぞれに糸井さんのプロンプトを実際に試してみて欲しい。

ここまで行くと、本当にもはや呪文や魔法みたいんだなと思う。さすが糸井さんは言葉の魔術師だなあと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。