大企業から個人のインフルエンサーまで、何かしら経済活動を行っている個人や集団は「人を動かしたい」という強い野心を持っています。

似たような名前の自己啓発書の名著があるため、単純に「人を動かすことは良いことだ」と信じて疑いません。

むしろ、他者に求める行動変容が明確じゃないと、自らが経済活動をする意味がないとさえ思っているように感じます。

しかし、この「何が何でも、他者を動かそう!」とする感覚には、とても違和感を覚えます。

最近、サロン内にも似たような問いが投稿されていて「目を輝かせながら人を変えようとするひとたちに感じるモヤモヤって一体なんだろう?」と、ここ最近ずっと考えてきました。

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そんな中、哲学者・思想史家である仲正昌樹さんの『統一教会と私』という本の中に膝を打つような表現があったので、少し引用してみたいと思います。


宗教や社会運動団体が押し付けてくる「変わらなければならない何か」というのは、通常、そうした自分らしさ=アイデンティティの不可欠の一部だ。そうした自分らしさの骨格のようなものを放棄しない限り、本当の人間らしい人間になれない、と言われる。 
 
そのとおりかもしれないが、一番自分らしい欲望や習慣を捨ててしまった〝私〟が、いまの「私」と同じ人間とは、とうてい思えない。「死ぬ」ようなものだ。人から「変われ=死ね」といわれて、抵抗しないほうが不思議ではないか。


ここで書かれているのは、宗教や社会運動団体(政治)の話ですが、企業やインフルエンサーの「人を動かそう」とする行為にも、似たようなことが言えるのではないでしょうか。

良かれと思って人に対して無邪気に「変われ」と行動変容を促す行為は、暗に相手に対して「一回死ね」と言っているようなものなのだと思います。

この点、たしかに若い子たちが「死ねよ」と冗談で言い合っているとき、それは相手に行動変容を促している場合が多い。

だとすれば、抵抗感を抱いて当たりまえだよなあと。

刑務所のような更生保護施設も、一定期間のあいだ世間から隔離して、そのひとのアイデンティティを一度抹殺し、一般社会に適合するように生まれ変わったと判断された場合にのみ、社会に戻ることが許される。それが不可能だと判断された人間は、無期懲役もしくは死刑とされてしまいます。

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そして、この事実に気がついたときにとてもハッとしたのですが、変わりたいと望む人間というのは大抵、自殺願望の一歩手前みたいなところがあるなと。

少なくとも、今の自分の人生に対して満足していないか、希望を抱いていない場合が多いです。

そして、カルト宗教や過激な社会運動家は、そんな人の弱みにつけこんで「死にたい」という願望の一歩手前の人のアイデンティティを望み通り殺してあげて、ゾンビ化させる。

そして、そのひとがまた、次のゾンビ(信者)となる対象を探しに行くという無限ループが行われている。

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だとすれば、安易に人を動かさないということは、人を殺さないということと同じぐらい大切なことなのではないかと思いはじめました。

無邪気にそのひとのアイデンティティを殺さない。他者を動かさず、そのまま活かし合っていくためにはどうすれば良いのかを模索する。

問いを立て、ともに考え、ともに歩んでいくための道筋を探ってみることのほうがきっと大切なんだろうなあと。

「意図的に他者を動かそうとしないこと」って、今すごく重要なことだと思います。さもないとすぐに過激化していってしまうから。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。