最近、生物学に関する書籍をよく読んでいます。
ポール・ナースの『WHAT IS LIFE?生命とは何か』や、更科功さんのオーディオブックの数々、また最近話題の新書『生物はなぜ死ぬのか』なども読みました。
そこでハッと気付いたことがあります。
「細胞(生物)が先に生まれたわけではない。まず先に環境があって、そこに細胞(生物)が誕生したのだ」と。
進化とは、あくまで環境に適した個体が増殖していく過程をあとから眺めて結論づけたに過ぎない。
にも関わらず、僕らはこの進化の結果ばかりに注目をして、そもそも生物が生まれたそのはじまりに意識を向けてこなかった。
言い換えると、環境はあって当然のものだと誤解してしまっていたなあと。
でも本当は、環境があったからこそ、その細胞は誕生することができたのです。
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なにを当たりまえなと思うかもしれませんが、これは非常に重要なことだと僕は思います。
たとえば、僕らは自分とは異なる生物として「腸内細菌」をたくさん自身の体内に飼っているわけですが、これも人間の体内環境が整った結果として、彼らはここに住み着いた。
そして、現在のように共存共栄できている状況が生まれたわけです。
また、いま世界中で猛威を奮っているコロナウィルスだって、「人間」という環境が存在しなければ増殖することはできません。
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ここでふと思い出したのは、内田樹さんは「教育」についてのお話です。
生物と直接関連するわけではないですが、僕には全く同じような話を語っているように思えたので、少し引用してみます。
教育って、全然お金かからないんですよ。そんなに先行投資がいるわけでも、設備がいるわけでもない。「アカデミア」というのは、ある種の「場の空気」なのであって、知的なものが尊ばれる、あるいは知的イノベーションとかブレークスルーに対して人々が素直な敬意を払えるような空気があれば、それはすでに教育拠点になり得るんです。
引用元:最終講義 生き延びるための七講 (文春文庫)
どうしても僕らは特定の個人として、優秀な個体や強力な個体が揃うことで、環境が後から生まれてくるものだと思っている。
しかし、本当は「空気」のようなものが先にあり、そこに適した個体が誕生し、あとは自発的に進化していくのが生物なのではないでしょうか。
つまり、環境が整った先に、僕らには考えも及ばなかったような奇跡のような現象(生命体)が現れる”可能性”がある。
この進化の過程において、コントロール可能性はない。未来の視点から結果を知りつつ振り返れば、たしかにあの生物が生まれたことが始まりだったとなりそうだけれど、その生物さえも、環境によって生まれている。
つまり、環境を育んで、あとは成り行きを見守るしかできないのです。
だとすれば、僕らの本来の役割とはその環境を整えること、手入れしながら、耕すことだけなのではなかろうかと。
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これは、一個人における「習慣」においても、まったく同じことが言えると思います。
習慣において、その重要な要素は「本人の強い意志」や「自制心」だと誤解されがち。
だからこそ、何かを偉大な業績を成し遂げたひとの「個性」や、その「強い意志」に注目が集まるわけですよね。
でも、彼らもまず環境があったからこそ、そこに適した習慣を身につけて、偉業を成し遂げる個体にまで成長した。
以前読んだ「習慣」に関する本の中に強く膝を打つ表現として、「自制心が強い人とは、自制心に頼らなくてもいい環境を構築できたひとであり、いちばん自制心を利用しない人だ」という話が書かれていました。
今思うと、これもまさしく環境の重要性を語った言葉だったのだと思います。
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単細胞生物から人間まで、私たち生物はすべて「関係性」の生き物であり、決して「個性」の生き物なんかではありません。
必ず、まず先に「関係性」が生じるための環境が存在している。
今回あらためて、生物学に触れる中で、その重要性を再認識することができました。
このWasei Salonも環境を第一に、メンバーのみなさんと一緒に花壇の土壌を育むような感覚で、環境を耕していけたらなと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているひとたちにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。
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