自分自身で起業した会社に、Wasei という名前をつけたときから、呪縛のように「和を成す」ということの意味を考え続けてきました。

このサロンも「Wasei Salon」という名前をつけてしまったため、いかにすれば本当の意味で「和を成すコミュニティ」を生み出すことができるのかをずっと考えて運営してきたつもりです。

つまり、僕のこれまでの起業人生の大半は、手を替え品を替え「和を成す」の意味をずっと考えてきた7年間だったように思います。

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そんな話をすると、「たしかにそんな理想的な世界が実現できたら良いですね」と、和を成すこと自体が、理想論や達観したビジョンだと受け取られてしまうことがしばしばありました。

でも、僕はいつもその視点に大きな疑問に感じていました。

なぜなら、僕としては徹頭徹尾「リアリズム」のつもりで「和を成す」ことは実践してきたつもりだったからです。

「ひとはなぜ、和を成すことを理想論だと感じてしまうのか」のほうに強い興味を抱いてしまいます。

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そんなことを漠然と考えていたときに、ものすごく腑に落ちる表現に出会いました。

心理学者である岸田秀さんの『唯幻論大全』という本の中に以下のような言葉が出てきます。少し引用してみましょう。

ー引用開始ー

今西(錦司)イズムも、古来、和を以て貴しとなした日本のイデオロギーの表明である。人々の考え方や利害は必然的に喰い違い、対立しているのだから、共同生活をするためには、おたがいに譲り合い、がまんし合って対立を表面化させず、何とかごまかしてゆくしかない、ごまかしきれないような決定的な対立であれば、それがおたがいに無益に傷つけ合う争いを惹き起こすのを避けるために、棲み分けて無関係に暮らすのがよい、というのが和のイデオロギーである。

日本人が和に大きな価値をおいているからと言っても、それは日本人がだれとでも仲良くやってゆける善良な人間であるとか、自己犠牲的な人間であるとかということではなく、人々のあいだの不可避的な対立を解決する手段として、闘争とその勝敗によるよりも、ごまかしと棲み分けによることを好んだということである。それは、ある意味では、対立の決定的な解決への絶望からきている。決して人間性への信頼というようなオプチミズムではなく、むしろ逆である。それはヨーロッパ人やアメリカ人の知恵とは違った形の、日本人の生きるための知恵なのである。

ー引用終了ー

まさにこの感覚に近いです。

理想論だと感じてしまうひとはきっも「人間性への信頼」という欺瞞を感じとってしまっているからなのだろうなあと。

以前もこのブログに書きましたが、人間が「自分の意見」に固執すれば、必ず最後は「闘争」に向かってしまう。


それが真剣であればあるほど議論では終えられずに、有形無形問わず、必ず拳を振り上げなければいけなくなります。

だとすれば、僕らができることは、先人たちの過去の失敗にしっかりと学び、積極的に自制することだと思います。

強い意志を持って、互いに侵略し合わないこと。そして、小さくても構わないから楽しく豊かに暮らすことを目指していく。

まさに、老子の「小国寡民」の世界です。

それが頭でわかっていても、人間が未来に漠然とした希望を抱いてしまうのは、未来に過去の絶望や後悔を逆投影してしまうからなのでしょう。
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マキャベリの『君主論』が真反対のアプローチからそうであったように、僕が考える「和を成す」ということも、決して達観や理想論ではなく、世界の構造を自分なりに見つめたうえでの徹底したリアリズムです。

それを証明していくためには、やはり「小さな現実」をまずはしっかりとつくっていくしかない。

その奮闘はこれからも続いていきそうです。

いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても、今日のお話が何かしらの参考になったら幸いです。

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