毎年恒例のiPhoneの新型が発表されました。

今回はAppleもついにAI搭載スマホになるということで、かなり注目されていた発表会です。

蓋を開けてみると、無印とProをほとんど変えずに「無印が買いだ!」とされるように促されるようなスペックにしてきたのを見ると、Appleが今回のApple Intelligenceに大して、どれだけ本気なのか伝わってくるなあと思いました。

普段なら、Proモデルで一度試して、そのあと方向性を決めるはずなのに、今回はそれがなし。個人的には地味に結構ビックリする出来事でした。

もちろん他のスマホの動向や市況の影響などもありつつも、それゆえ絶対に負けられない戦いでもあると踏んだうえでのAI機能開発だと思うから、今回は、特に様子見を必要もなく、サクッと無印で乗っかっていいんだろうなあと思います。

来年まで待ってみても、この方向で行くのは、もう決まったようなものだから1年触るのが遅れてしまうだけ。

だったら今回のモデルから、その試行錯誤の状態を含めて触ったほうがいろいろと発見も大きくなりそうです。(とはいえ、日本でApple Intelligenceを体感できるのは来年以降かららしいです)

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で、こういうのは完全に慣れの問題でもあると思っています。

両親など、スマホがすでにほぼ完成してから初めて触ろうとするひとに教えようとすると、時々驚くことがある。

自分は、初期の頃のiPhoneから触っているから、何がどのように進歩してきて、既存のどの機能がどんなふうに応用されてきたのかもわかるけれど、そうじゃないと、触ってもわからない機能というか、意味が理解できない点も多いよなと本当に思います。

そう考えると、できあがったものをあとから触るよりも、その過程を触っていることの価値は圧倒的に大きいんだろうなって。

ゲーム全般なんでもそうですが、それができあがっていく過程を含めて触っておくのが、一番内側の構造をちゃんと理解できる場合が多いんですよね。

その内側の構造を理解していると、表側の飾りにも騙されなくもなる。

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で、今日の本題はここからであって、系譜学や、その発展過程を理解できているかどうかが重要だというよく聞く話の本質はきっとここにあるとおもうんですよね。

突貫工事の段階、その骨組み段階から、対象を見たことがあるかどうか。

その段階からずっと過程を含めて眺めているから、理解できる明確な意図や弱点なんかもあるはずなんですよね。

でも多くの人は、その段階においてはまだ触れようとしないのです。

当然ですよね、まだ完全には完成していないわけですから。自分には関係がないと思ってしまう。

でも、それを触っていないととわからない進化や進歩の過程って、実はいっぱいあるんです。

人間の進化の過程なんかもそうじゃないですか。何がどのように進化して、目や耳が生まれてきたのかみたいなことを知るっていると、その目や耳の錯覚に対しても理解が進む。

つまり、過程を知っていると何が「枯れた技術の水平思考」のようにして使われているかもわかるから、より一層、内側からハックをしやすくなるわけです。

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でも、もしこれが完全に完成した後に、リバースエンジニアリングするとなると、途端にむずかしくなってくる。

そのときの開発段階の「人々の感情」や「思い込み」、そして「当時の普通」なんかも同時に理解しなければいけないですからね。

言い換えると、その感覚というのは、今の普通の価値観で眺めていては、決して見えてこないものなんです。

当時の人々の感情を理解し、その時の「普通の視点」においてフラットに見ることが求められて、これは今の自分とは異なる視点として相当意識して、獲得しなければならないもの。

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たとえば、インターネットの分野において、未だに画期的な使い方を生み出す若い世代があまり出てこないことも、ある意味では当然のことで。

それは、スマホネイティブ世代が「今」しか見ていないから。それはものすごく表面的な部分で考えていることになる。

それよりも。インターネット黎明期にオタクみたいなノリで触っていた人たちのほうが圧倒的に強いに決まっている。

たとえばサイバーの藤田さんとか堀江さんとかドワンゴの川上さんとか、あの世代です。

それは言い換えると、インターネット史を知っているひとたちということでもある。彼らは生き字引のような存在なんですよね。インターネットがどのように進化してきたのかを、ちゃんと内側で見てきたひとたち。

先に生まれた「先生」が偉いのも、本当はそれが理由なんですよね。

東浩紀さんがインターネットの歴史を学ぶことの意義みたいなものを、シラスでいつも力説されていて、「パソコンの父」と呼ばれるようなアラン・ケイの話をしていることも多いのですが、このあたりの話は、本当に象徴的だなと思いながらいつも聴いてしまいます。

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たとえば、これと全く同じような論理で、戦後の政治家がすごかった理由なんかも、説明がつく。

それは、戦後日本を自分たちがゼロからつくってきた、という自負が彼らの中にはあったからですよね。

裏も表も、本音も建前も、清濁併せ呑むということの本当の意味をちゃんと理解している。何が裏側を隠すための化粧であって、本音や本質がどこにあるのかもちゃんと理解している。

もっと前の時代で言えば、幕末から明治維新にかけてもそう。自分たちが近代化を成し遂げたと思っていて、自分たちがルールメイカーでもあるから、幕末の武士から明治初期の政治家たちが大胆な行動に出られるのも、当たりまえなんです。

もっともっと遡ろうとすれば「資本主義そのもの」だったり、「言語そのもの」だったりもそう。

それをリバースエンジニアリングできて、本質を理解することができたマルクスやウィトゲンシュタインなんかのすごさも、きっとここになる。

そして、正しくリバースエンジニアリングをしている人の視座から語られる話を、僕らはもはや理解ができないんですよね。

それはむずかしいからじゃないですよ、今の「あたりまえ」や「普通」の思考から逃れられないから、です。

いつだって、遅れてきた存在である、というのはそういうことなんですよね。

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さて、僕らはいつだって遅れてきた存在といえば、内田樹さんがエマニュエル・レヴィナスの言葉を借りて、それを「始原の遅れ」という非常にわかりやすい言葉で、様々な箇所で語ってくれています。

以下は、インターネット上で公開されていた高橋源一郎さんとの対談からの引用です。

内田    レヴィナスに、「始源の遅れ(initial après-coup)」という言葉があります。自分は世界の創造に遅れてやってきたという、人間における宗教的覚醒のことなんですけれど、信仰の一番基本にあるのは、この「遅れている」という感覚だとレヴィナスは言うんです。この世界には自分がやってくる前にすでに「誰か」がいて、その人が設定した場に自分は後から参入してきた。そこがどういうゲームのルールで成り立っているかはわからない。でも、すでにプレイヤーとしてそのフィールドに放り込まれているから、何かしなければいけない。必死にプレイをしながら「これは一体どういうゲームなのか」「このフィールドはどういう構造になっているのか」「自分はプレイヤーとして何をすることを求められているのか」を学ばなくてはならない。それを「始源の遅れ」と言う。



内田さんは、これを宗教的覚醒と呼んでいますが、この感覚を持てるかどうかが、技術の進化を理解する上でも非常に重要だと、僕は思っています。

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とはいえ、遅れてこの世にやってきたことを、いまさら悔やんでみても仕方ない。

だとしたら、今から、これから、立ち上がっていく分野の過程をちゃんと見ておくこと。

将来において「メジャーになるゲーム」を最初の段階から知っておくこと。

そうすると、そこになぜそんなルールが増えたのか、ということが手に取るように理解できるようになるから。

そして、一体何と折り合いをつけて、どこが無理やり水平活用をされたのか、なんかもわかってくる。

言い換えるとルールそれ自体の理解なんかよりも、ルールメイカーの意図しているその趣旨目的から考えることができるようになる、それが大事なんだろうなあと思います。

また、同時に過去の歴史からも学び、その過程を知ろうと努力もしてみること。人間のやることは、いつの世の中も、だいたい同じですからね。参考になる部分がいっぱいある。

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繰り返しますが、いちばんよろしくないのはまだ発展途上だから、ちゃんと完成してから触ればいいや、それが一番コスパもタイパもいいはずだと、誤解してしまうこと。

それこそが、発展途上から携わってきたひとたちの思うツボであり、まさに鴨がネギを背負ってやってきた状態になる。

それは、自ら能動的に賢く選んでいるようで、単に選ばされているだけ。何が本質で何がガラクタなのか、それをわからなくさせられてしまっている段階、で参入するということだから。

完成度の高いイミテーションのダイヤモンドもどきは、もはや素人には見分けがつかないように。でもそこにはプロだったら見逃さない、絶対に隠しきれない何かがある。

そしてその隠しきれない何かを隠そうとしてきたのが、イミテーションのダイヤモンドもどきがたどってきた歴史そのものでもある。そんな話です。

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多少面倒で、不具合が多かったとしても、これから突貫工事が急ピッチで始まっていくものを見ておくことの意義はここにあると僕は思っています。

そして、現代生きているのなら、web3をはじめとするトークンエコノミーや、AIまわりを今から見ておく、触れておくことに越したことはない。

ということで、今回のiPhoneは3Gsを買ってみるのときっと同じぐらいのタイミングとなって、最初は大して使い物にならないこともまず間違いないのだけれど、それでも触っておいたほうが良い、だから僕は今回も黙って買います、という長い長い言い訳めいたお話でした。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。