昨日もご紹介した村田沙耶香さんの新作長編小説『世界99』。
これは、決して交わらない断絶した「界隈」が無数にある世界を描写している小説です。
つまり世界1〜99と言えるぐらいに、全然異なる「界隈」が、現代には存在しているよねというメタファー。
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で、この小説のなかで、意識高い系の世界(界隈)の描写として、やたら「論文」という単語が用いられていました。
そうやってお互いの同質性を確認したり、マウントを取り合ったりする世界(界隈)の話が描かれていたんですよね。
確かに、最近になって、会話の節々に「論文」という単語を無駄に入れ込んできて、暗にマウントを取ってくるひとが増えたよなあと思います。
自動翻訳とAIの要約が当たり前になって、論文を読むこと自体が身近になったことも大きい。あとは、猫も杓子も「専門家ヅラ」するようになった傾向、その証でもあると思います。
彼らが「論文、論文」と連呼しながら、その意図するところは、「私は、陰謀論に騙されるような人間ではありません。論文で根拠が示されたもの以外は信じません。私は専門性の高い人間です」という意思表示にほかならない。
でもそれも結局、科学という「神話」、科学という「宗教」を信じているに過ぎない証でもある。
そんな身も蓋もない話がこの小説の中で描かれていて、本当にこういう斜に構えた見方はよく思いつくなと思わされます。小説家という職業は、あらためてすごい。
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で、このことを考えながら、養老孟司さんの「真っ赤なウソ」と「嘘から出たマコト」の話を思い出しました。
端的に言って非常に、ややこしい話です。
でも、ものすごく大事な話だとも思います。
まさに現代社会の分断や対立をそのまま言語化してくれているなあと思うので、今日はこの話を、なるべくわかりやすく丁寧にお伝えしてみたいなと思います。
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まずは、実際に養老さんの『養老孟司の大言論 希望とは自分が変わること』という本から少し引用してみたいと思います。
真っ赤なウソだと、パッケージに書いてある。そういうものが、現代社会では売れる。
なぜなら、人々は安心してその世界に入れるからである。入り込んだところで、はじめからウソじゃないか。それならいつでも外に出られるのである。出ようと思えばすぐに出られる、お化け屋敷みたいなものである。
それなら真っ赤なウソは、全面的にウソか。冗談ではない。ウソから出たマコトこそが真実なのである。お化け屋敷のお化けはウソだが、恐怖は本物である。
さて、どうでしょう?全然、意味がわからないはずです。
僕もこの話を別の本で最初読んだときは、まったく意味がわかりませんでした。
それでも、養老さんの他の本も読み続けて、最近ようやくボンヤリと理解できてきたところです。
大事なポイントは「ウソから出たマコトこそが、真実になりえる」という部分です。
以前もご紹介したように、お化け屋敷も「真っ赤なウソ」そんな「劇場」の一つ。
そこに存在する「お化け」は、作り物であり当然「真っ赤なウソ」なわけですが、そこで感じる「恐怖」は、入場者にとっては紛れもない真実。
つまり「マコト(誠)」だということです。
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で、たとえば今年に入ってからの排外主義のムーブメントなんかも、まさにこれで説明がつくかと思います。
「クルド人が悪さをしている」とか「中国人がマンションや土地を買い漁っている」とか、あと古くは「関東大震災で朝鮮人が井戸に毒を入れた」などもそう。
どれも客観的な事実としては根拠が不明瞭であり「真っ赤なウソ」の部類です。
しかし、そのウソの噂から生まれてくる、人々の「恐怖心」は否定しがたい「マコト」なのです。
その結果としての恐ろしさを描いたのが、まさに映画『福田村事件』でした。
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また、アメリカのトランプ大統領や、日本における参政党が「誇りを取り戻せ!」と煽るのも、この構造と見事につながっている。
彼らは、排外主義や自国ファーストを貫くことが「真っ赤なウソ」だとわかっていても、そこから生まれてくる人々の「恐怖心」こそ、自らを政権の座に押し上げてくれる強力なパワーであることをよくよく理解しているわけです。
だから、専門家や行政担当者が「そんな事実はありません」とか「論文にもデータとして、このような事実が書いています」と否定してみたところで、そうやって否定すればするほど、恐怖という「マコト」を信じている人々にとっては、「あいつらは嘘をついて、真実を隠しているんだ!」という話になってしまう。
それはまるで、お化け屋敷の中で「これは本物じゃない、偽物だ!怖がっても仕方ない。相手は特殊メイクをして騙そう(怖がらせよう)としてくるただの人間なんだ!」と言ってみたところで、今現在「真っ赤なウソ」つまり「お化け屋敷」の中にいるひとたちには、リアルと大差のない恐怖と一緒。
だからこそ、まずは相手の信じる「嘘から出たマコト」と向き合い、そこに寄り添うことから始めなければ対話は成り立たないというのは、そういうことなのだと思います。
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ただし、さらに本当に怖い話はここからだと思っています。
そんなふうに冷静な視点で「客観的なデータ」や「論文」なと、「事実」を信じる人たちが誤解していることがある。
それは、自分たちもまた同じように、一種の「宗教」を信じているにすぎない、ということです。これが冒頭の話にもつながります。
えっ、どういうこと?と思うはずなので、再び養老さんの本の続きの部分から引用します。
それなら訊くが、その「事実」なるものを、いったいだれが知っているのか。それを知っている人が独りだけいる。それが全知全能の唯一神である。つまりすべての事実を詳細に至るまで把握している唯一の存在、それが一神教における神である。だから唯一の客観的な事実とは、じつは信仰そのものなのである。まさに「神のみぞ知る」だからである。しかし科学者が唯一の客観的事実があると「信じる」とき、本人はそれが信仰だとは、夢にも思っていないであろう。科学者は唯一の客観的事実を知っているのは俺だ、と思っているに違いない。それが俺の専門分野だ、と。
これには衝撃を受けました。膝から崩れ落ちそうになる感覚を味わうほどです。
つまり、神とはなにか。宗教の最初に置かれる「真っ赤なウソ」である、と。
そして、最初に最大のウソを置くとき、あとはほとんどすべてが「嘘から出たマコト」になりうるのだと。
結局、僕らは誰もが、程度の差こそあれ、何か「絶対的なもの」として信じるしかない。
それが、「論文(科学・データ)を信じるか、陰謀論を信じるか」の違い程度であって、「何を信じるか」が違うだけ。
原理的に考えれば、それらはどんぐりの背比べ、五十歩百歩みたいなものなのです。
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で、ここで思い出されるのは、以前ご紹介した小説『イン・ザ・メガチャーチ』の中に出てくる女子大生の心のセリフです。
あのセリフは、とても本質を突いていることもよくわかるはず。
最初は、ものすごく意識高い系の大学生だったにも関わらず、その「視野を広く持つ」というイデオロギーの息苦しさに耐えられなくなり、自ら進んで「推し活」という宗教に入信した彼女が、心の中でこう囁いたわけです。
「何が人を騙すための物語だ。結局誰だって、信じる物語を決めて生きているだけだ。」
一般読者からすると、ものすごくバカバカしい開き直りに思えるように描かれてはあるのですが、でもこれこそが本質。
こう開き直られたら、もうおしまい。だって、原理的にはそれは正しいのですから。そこには橋をかける余地さえなくなります。
「お前たちも同類だろう、だったら私たちにも口出しするな」と言えてしまう。
本当は一番大事だった「程度の差」が、原理主義的な思考によって完全に無化されてしまう。
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養老さんも、先ほどご紹介した本の中でこう書いています。
イデオロギーも宗教も、なぜ人をひきつけるかというなら、真っ赤なウソからはじめるからである。両者を消してしまおうという社会では、アニメやファンタジー、ひいてはテレビゲームが栄えるしかない。それを低級だと決め付けるのは、お門違いである。イデオロギーや宗教という、より高級なウソを、偉い知識人たちが暗黙に否定してしまったのだから、庶民としては、より「低級なウソから出たマコト」に信じるしかないではないか。なにが問題なのかというなら、人間は要するになにかを信じるしかない動物だということを、高級な人たちが忘れているのである。
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かつての社会は、その微妙な差異こそが、大切にする文化をつくってきたはずです。
「そんなみっともないことは、やめろ」という社会の空気(常識や普通)が、原理的に振り切ろうとする人間を、全員で白い目でみることによって、良くも悪くも常軌を逸して逸脱しようとする人間を村八分にしてきた。本当に、良くも悪くも、です。
その役割を果たしていたのが、まさに倫理観や道徳、つまり宗教の世界です。
あるいは、そういう原理的なことを考える人間は、大学という「象牙の塔」の中に閉じこもってもらって、「学問の自由」の名のもとに、世間からはしっかりと隔離してきた。
その科学という神話を突き詰めることも一方で、今のインターネットやAI、コロナのワクチンのように、社会の有用性なんかも当然生み出してくれるわけですからね。
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つまり、かつては社会の「常識」や「倫理観」、あるいは「象牙の塔」といった仕組みが、その原理主義的な対立を緩和する緩衝材の役割を果たしていた。
しかし現代は、そういう専門家、もしくは専門家ヅラした人々が、ひとりひとり発信できるメディアを与えてしまい完全に野に放ってしまった。
そして、科学一辺倒にしてしまった。(つまり一神教一辺倒にしてしまった)
結果、「論文、論文」と聖書や経典のお経を唱えるかのように振る舞う彼ら・彼女らと、地方のいわゆるマイルドヤンキー層、推し活層、スピ系層、陰謀論者たちとの間で、見事なまでに「分断」が加速してしまったわけです。
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ここまで書いてきて改めて今日思うことは、この現象って無関係なひとがいない。
そして、昨日も書いたように、そこに橋をかけよう、まずはどちらかの船に乗り込もう、というインセンティブ自体が、もう若い人たちの間では働かない。
なぜなら、二股に分かれた大通りは世界から消え去って、すべてが猥雑な路地裏に変化してしまったのですから。
近年、 SNSの登場以降「誰々の足が踏まれている」という議論のもと、良かれと思って変えてきたありとあらゆることが、実はものすごく悪い方向へ進んでしまう、その入口だったのではないか。
もしかしたら「多様性」なんて一ミリも認められなかった世界のほうが、よっぽどユートピアだったんじゃないかと思えるほど、実は僕らは今、ディストピアの入口に立っているのかもしれません。
本気でそうじゃないと願いたいとは思いつつ、そんなことも”陰謀論的に”考えてしまうぐらいには、世の中の分断が明らかに進んでしまっているような気がしています。
2025年の現代社会が抱える課題を考えるうえでも、村田沙耶香さんの『世界99』、そして朝井リョウさんの『イン・ザ・メガチャーチ 』は必読の2冊だと思います。
いつもこのブログを読んでくださっている皆さんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
