先日、Wasei Salonの中で漫画『葬送のフリーレン』の読書会が開催されました。

https://wasei.salon/events/f3e1d3f46bed

『葬送のフリーレン』の読書会は今回で2回目。アニメが放送開始になったことも踏まえて、改めてにしじーさんが主催してくださって、開催する運びとなりました。

今回も、90分間みっちりと有志のメンバーでゆったりと感想会をしてみたのですが、当然まったく語り足りなくてこの漫画の連載が続く限り、これからも何度でも対話会を開催できるなあと感じています。

さて今日は、この読書会の中でも語られた、この作品と鬼滅の刃の「悪」の認識の違いについて、少しこのブログの中でも考えてみたいなあと思います。

(今日の内容に関しては、どちらの作品も既にある程度は読んだことがあるという方にしか伝わらない内容かもしれません。ただ、既にきっと多くの方が、既に両作品に触れていると思うので、あらすじはみなさんが知っているという前提で、お話が話を始めていきます。)

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さて、この両作品とも、人間vs「鬼」や「魔族」の対立が描かれています。

このときに、両者がなぜ武力で戦わなければいけないのか。

それは、その「悪」の解釈の問題を巡ってということなんですよね。

で、まず鬼滅の刃の場合は、鬼と人間の「悪」の認識というのは、大体ほとんど同じです。

ただ、そのうえで鬼の側には、鬼になってしまったその止むに止まれぬ事情がある。

言い換えると、悪に踏み切らざるを得なかった理由だったり、鬼になってしまう背景がちゃんと描かれてあって、その背景にはしばしば悲しい過去や避けられない運命が描かれてるわけですよね。

「絶対的な悪」や「絶対的な正義」なんて、この世には最初から存在しないということを僕らにまざまざと教えてくれているような作品となっており、それが多くの現代人の共感を得たわけです。

この点、思想家・内田樹さんが、以前もご紹介したことのある『街場の成熟論』というご著書の中で、鬼滅の刃について少しだけ語っていて、内田さんはこの作品の魅力を以下のように語っています。

再び本書から少しだけ引用してみたいと思います。

このマンガの卓越した点は「健常」と「疾病」をデジタルな二項対立としてはとらえず、その「あわい」こそが人間の生きる場であるという透徹した見識にあったと私は思う。この世には100%の健常者も100%の病者もいない。一人一人が何らかの欠損や過剰を抱えており、それぞれの仕方で傷つき、それぞれの「スティグマ」を刻印されている。『鬼滅の刃』の手柄はその事実をありのままに受け入れ、病者たちに寄り添い、時には癒し、時には「成仏」させる炭治郎という豊かな包容力を持つ主人公の造形に成功したことにあるのだと私は思う。


この解釈は、僕もとても強く共感します。

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さて一方で、「葬送のフリーレン」は、魔族と人間(エルフやドワーフも含む)の間の「悪」の認識が、そもそも根本的に異なっているという点で、鬼滅の刃とは一線を画する内容となっています。

つまり、魔族らにとっての「悪」は人間のそれとは本質的に異なるということです。

人間が考える悪を、悪だとさえ思っておらず、「悪意」という概念自体をそもそも知らないものとして、こちらでは描かれている。

そして、ここではその象徴として「言葉」の解釈の違いが、しばしば頻繁に話題となり描かれています。

魔族が、人間の言葉を自らの欲望を満たすための都合の良い道具として使用する一方で、その背後にある想いや意味をまったく理解していない点が、頻繁に強調されているわけですよね。

人間の言葉を、人間のように操れていて、その背後には人間と同じような感情の揺れがあるように見せかけているだけであって、実はそもそもその言葉の背後にある想いや解釈を一切持ち合わせていないというような。

だから、たとえ言葉(や論理)を語っていても、その背後にある「意味」は持ち合わせていないのだから、魔族は殲滅してもいいという論理が、この漫画の主人公(フリーレン)側の正義です。

この不気味さは、現代社会にも広く蔓延していて、まさに哲学者・ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」みたいな議論にもつながる話だと思います。 

今だと、ChatGPTのようなAIのような新たな存在に対して、僕ら人間側が感じる不気味さみたいなものにも非常に近いのかもしれません。

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で、読者の僕らはその殲滅をする姿を見せつけられて、「言語の壁」みたいなものを漠然と感じて、絶望するわけですよね。

そして、ある種「言語」の限界のようなものも同時にここで見せつけられているわけです。

これは、長らく人類普遍の問題でもあって「価値観や文化が異なる国の人間は成敗の対象になるのかどうか」という普遍的な問いにもつながる。

日本であれば、桃太郎のように「鬼退治」の物語がまさにそれで基本的にはすべてこのテンプレートに沿っている。

大和朝廷と異なる考え方を持つ人間は、すべて「鬼」とされて成敗してしまってもよかったわけです。

戦時中は、その鬼を文字通り、鬼畜米英として読み替えて、「桃太郎」を主人公にした白黒アニメでプロパガンダ映画までつくっていたのが、この国の歴史です。

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で、葬送のフリーレンは一度、魔王を完全に倒したあとに続いている物語であるというところも、またこのお話の肝でもあるなあと思います。

「歴史の終焉」からのテロリストとの戦いという、現代社会と大きく重なる部分もある。というか、わざとそうやって読めるように描かれている。

つまり、ある種の「言葉」による「自由の相互承認」という理想像の、その先の話を描いているようにも思います。

トップ(国の指導者=魔王)が消えても、テロリストはいなくならないという証を日々見せつけられている現代を生きる僕らが、とても共感してしまうポイントはきっとここにある。

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この点、既に東浩紀さんの『訂正可能性の哲学』を読んだことがあるひとなら、これはクワス算を主張してくるような存在の人々にも近いはずです。

一度トップを武力で殲滅したり、「言葉」や「法律」を用いて論理でお互いにわかり合ったはずなのに、必ずそのあとに逸脱した解釈(非常識な解釈)を持ち出すヤツらが、この世の中には必然的にあらわてくるのだと。

というか、そもそもそうやって一度は認識を統一することができて、わかり合えたと思う事自体が幻想でしかないのでは?ということでもある。

統一して、統一して、何度と無く合意形成をしてみたとしても、必ずその解釈を歪めて、多数派から見たときに”非常識なやつ”があらわれるということでもある。悪質なクレーマーと、その本質は変わりません。

現状はそれを武力(つまり魔法)で倒していくほかない、ということです。

でも問題の本質は、どうやって彼らと共存していくのか、ということのほうなのだと思います。

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「悪」の感覚を共有できず、互いに一生涯わかりあえない、その不気味さ。

それが鬼滅の刃よりもさらに一歩進んだ物語として、共感してしまうポイントなんでしょう。そして、それに対して僕ら人類はこれからどう折り合いをつけるのか、これが本当に大事な問題提起だなあと思います。

だから、本作は現代をあるがままに直視した結果、生まれてきた問いでもあり、ある種ものすごく哲学的な作品でもあるなあと思います。

ゆえに、現代社会に生きる僕らにもここまで深く刺さるんでしょうね。

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きっと世が世なら、葬送のフリーレンはまったく人気にならなかったはず。

仮に、90年代ドラゴンボールやスラムダンクの裏で、この作品が連載されていたとしても、誰も見向きもしなかったでしょう。

でも時代が変化し、現代人が無意識に感じ取っていること、そんな言葉にならないような違和感をある種のフィクションにして、極端にデフォルメしてわかりやすくしてくれた。

誰にでもわかりやすいストーリー形式の問いとして提示してくれている。

それが『葬送のフリーレン』のすごいところであり、漫画や小説のすごいところでもあるなあと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。