明日、Wasei Salonの中で読書会が開催される予定の『別冊 NHK100分de名著 フェミニズム』という書籍を読みました。

この本を読んでいるなかで、ものすごく印象に残っているお話があります。

それが、過去のつらい経験を語っているなかで、何かフラッシュバックが起きたら「爪(ネイル)を見て」というお話です。

教育学者・上間陽子さんが、 10代のシングルマザーを支援するシェルター「おにわ」の代表をされていて、シングルマザーの方たちと対話をする際に実践されているというお話になります。

以下で本書から、少しだけ引用してみます。

私が精神科医に教えてもらった方法があります。それは、「 爪 を見る」というものです。     たとえば子ども時代のつらい経験を語っているなかでフラッシュバックや解離が起きてしまったときには、語り手が当時のつらい体験を受けている自分に戻ってしまい、今の自分もまたその行為をされていると感じてパニックになってしまったり、凍りついてしまうことがあります。そのとき私は「爪を見て」といいます。     そして、当事者やスタッフにこんなふうにうながします。 「あのときは、こんなにきれいにネイルをしていなかったよね」 「あなたのこの美しいネイルはもうすっかりお姉さんになっているからですよ、と話しかけられない?    あなたは今、もう五歳ではないよねと声をかけられませんか?」


これは本当に素晴らしい声がけですよね。

そして、僕はずっと不思議でした、ネイルとは一体何なのか、と。

決して、それは人に見せるための華美な装飾品として存在しているだけではない感じがしました。そして実際に不意に女性たちがぼーっと眺めるネイル。ものすごく呪術的なものに近い印象がずっとあったんですよね。

で、その効果効能というのは、きっとこの「いま、ここ」に引き戻してくれるこのような仕掛けとしての作用もあるということなんだろうなあと。

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これは、映画「インセプション」の中に出てくる、あのコマなんかにも似ているなあと思います。

あとは、プロのスポーツ選手のルーティンの数々、そのゾーンに入るための儀式に用いるアイテムなんかにも近いのかもしれない。

そのために音楽や食事、何気ないスポーツ用品の数々が用いられているわけですよね。

僕はずっとバスケットボールをやっていたのですが、試合中に、何かミスをしても、次のプレーに集中するために、そのミスを引きずらないために、それを引っ張って自らに刺激を与えて過去の後悔を断ち切るための意識を「いま、ここ」に戻すためのリストバンド的なものがあって、その役割なんかにも非常に近い気がしています。

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このような「いま、ここ」に帰ってこられるためのジンクス、縁起を託せるもの、願掛けできるようなものが、これからは日常生活の中でもとっても大事で、僕らがいかにそれを持つことができるかが、今問われているような気がしています。

ここが今日一番強調しておきたいポイントです。

言い換えると、これはからは、そんなふうに希望や祈りを託すことができるその余白や依代があるものが本当に重要になってくる。

それはなぜか?

これからは「いかに死なずに生き延びるか」ではなく「いかに希望を持って生きられるか」のほうが重要だから、です。

この点、先日もご紹介した『日本発酵紀行』の中で、小倉ヒラクさんが書かれていたことが非常に参考になるなと思うので、再び本書から少しだけ引用してみたい。

「いかに死なずに生き延びるか」が至上命題とされた時代が終わり、成熟した日本に生きる僕たちの次の命題は、「いかに希望を持って生きられるか」になるのだろう。自分の暮らす土地が、自分を育んだ文化が未来も存続する。自分の存在が肯定されるための、自分という個のローカリティを担保するための希望。この国の、なるべく多くの土地でこの希望を感じられるようにする。そのときに、土地の記憶を宿し、風土を体現する発酵文化はローカリティの拠り所、希望の拠り所になるはずだ。みんなで食卓を囲みながら、何百年ものあいだ醸された歴史を食べて血肉にする。記憶を伝達するのは言葉だけではない。食べることは学ぶこと。つくることは思い出すことだ。


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この話も、本当にそのとおりだなあと感じます。

生き延びることは、容易になってくれたのに、いまは希望だけが足りない。そのための依代が発酵だと、ヒラクさんは教えてくれているわけです。

過去への後悔と未来への不安、その幻影に僕らは常に惑わされてしまっていて、今を生きられないでいる。それがまさに「希望」がない状態です。

昔は、ネイルのような作用をもたらしてくれるものが、それこそ文字通り、そこに連なる玉を数える数珠やロザリオ、先祖代々受け継いできた大事な形見なんかもそうだったのかもしれません。もちろん、神社で手に入れられるお守りだってそうだと思います。

でも現代を生きる僕らには、もうそれは不可能。

良くも悪くも、そのような人類の叡智、広義の宗教性のようなものを、現代人の僕らは科学技術と引き換えに信じることができなくなってしまったから。

だとしたら、自分で自分のために、ジンクスを見出せる対象(希望)自体を、またゼロから見つけないといけない。

それぞれが、それぞれにあった希望を見出さないといけなくなっているわけです。それがきっと、ネイルの話にもつながっている。

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そして、ハレとケでいうところの、ケの日常の中で、そのような感情を抱かせてくれて、私の「希望」を託せるものって実は世の中には意外と少ないと思います。

大量生産で安く品質がいいものだったとしても、この依代のようなものが存在しないアイテムやというのは非常に少ない。

で、僕にとってはこれがイケウチオーガニックさんのタオルだなあと思っています。

もしこれがまったく同じ品質の他社製のタオルであっても、大量生産、大量消費の大衆商品だったら、たぶん自分がジンクスを込める対象とすることに対しては、きっと疑念を持ってしまうでしょう。

僕にとってイケウチさんのタオルは、自分が生産現場を実際に観に行き、池内代表をはじめとして、イケウチオーガニックで働くすべてのひとたちに強い感銘を受けて、その真摯なものづくり、志高い姿勢、でも地に足のついたものづくりをしていること自体に、何かその余白や依代を、そこに感じることができる。

ゆえに、自分の大事な感覚を託すことができる目の前にある「モノ」であると感じている。

そして、ケの日常に用いるアイテムとしてのタオルほど、このようなものとして最適なものもほかにはないと思っています。

毎晩入るお風呂のあとに必ず触れてその度に「いま」に戻ってこれるし、毎日、手を洗うごとに握りしめるフェイスタオルなんかでもそうです。

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そして決して、これっていうのは占いや迷信の類いではない。明確な価値そのものだと僕は思います。

昨日も書いたように、人間は「構造」だけで生きているわけではない。機能がとっても大事なはず。

構造が客観的な「品質」の話だとしたら、この余白や依代という機能を、僕らは実際に感じ取っている。

リストバンドの例に話を戻せば、映画『THE FIRST SLAM DUNK』の中で、宮城リョータが兄から受け取った赤いリストバンドなんかはまさにそう。

あの贈り物は、ジンクスを託せるものとして、映画の中に非常に重要な意味を締めていましたよね。

きっと、そこに「贈与」の力があることもきっと重要で。

以前もご紹介した『世界は贈与でできている』という本の中に出てきた「無くした時計は、まったく同じ品番を買い直しても同様のものではない」というあの話にもとてもよく似ている。

僕らはそこに、圧倒的に何らかの価値を見出しているんですよね、間違いなく。

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もちろんその対象は本当に何でもいいかと思います。

信頼できるネイリストさんや、信頼できる作り手さんであれば良いんだと思います。

身近にありつつも、そこにこだわりを感じられて、自らが客観視できるものだと更にいいのでしょうね。

僕の抽象的なイメージは、コレになら自分の命を預けても大丈夫だと思えるそんなセーフティネット的な懐の深さ、トランポリンのようなもの。

そのような自らの全身全霊でぶつかるものに対して、人は自然とコスパやタイパを求めることはなくなると思います。より安いお守りを買おう!みたいなひとなんてたぶんいないですよね。

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ヒラクさんがいうところの「希望」を託したいと思える何かがある、そう心の底から信じられるもの。

つまり、「あー、ここまで丁寧に作られていたら『カミ(神じゃない)』が宿る」と思えるもの。

あと、それはたくさんなくてもいい、つまり贅沢じゃなくてもいいんです。希望という豊かさを感じられることが、いま何よりも重要だと感じます。

でもそれがあるだけで過去への後悔、未来への不安、そんな疑念がなくなって「いま、ここ」を生きられるようになるんだろうなあと思うのです。

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もちろん、ここまで書いてきた内容、それさえもすべて幻想だ、目を覚ませ!というのが、世界の圧倒的な真実なのだと思います。

まさにそこに気づけというのが原始仏教、ブッダの教えです。

そして、禅や空海の密教の教えなんかにもそれが繋がっていくのだと思うのだけれども、一方で、親鸞の「南無阿弥陀仏」の話でもあり、それが民間信仰の意味でもあると僕は思う。「絶対他力」にも通じる話。

絶対他力としての希望や祈りを託せる依代があるものを、僕はまず大事にしたい。

だって、それこそが、そのようなブッダが目指した境地に立つための一丁目一番地だとも思うから。

これからの時代に希望をつなぐ、それがヒラクさんの語るように「文化」の持つ圧倒的な力だし、似たような共同幻想を共有することができるコミュニティ(共同体)の力でもあるかと思います。

ひとりでは不可能。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。