ひとの「憧れ」にも大きく分けて二種類ある。

ひとつは、幼いころから見慣れた「憧れ」を、そのまま自己も体現したいと欲するコスプレ型。

もうひとつは、その憧れた先人たちが見据えていた世界観を、自分の生きている現代に合わせて新たに創り出したいと欲するスタイル型です。

そして多くの人が、前者のコスプレ型に属するタイプの「憧れ」を抱いていてしまっていると思います。

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「私はコスプレなんかしているつもりはない!」と思うかもしれないですが「良い大学に入り、新卒で一流企業に入社し、二子玉川などに住んで、子供をつくり、その子供を私立の学校に入れて〜」などの一連のわかりやすい現代の幸福物語も、基本的にはコスプレ願望に近いと思います。

一番初めにそのような行動をとった人たちが、なぜそのような行動に至ったのか、その思考過程も考えずに、ただ漠然と世間的に良しとされている型を真似ることだけを追い求めると、自然とコスプレ型になってしまうということなのでしょう。

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一方で、スタイルを創り出したいひとは、世間一般的なコスプレ型の「憧れ」には目もくれず、本当に先人たちが目指したいと願った世界観とは何だったのか、それを常日頃から考え続けている。

その最適解を探るために、自らも人生をかけて実験したいと願うのでしょう。

彼らは、コスプレ的な欲望なんて目もくれず、ひたすら今の時代にあった新たなスタイルを模索しています。

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さて、この両者が別々に暮らし、別々の職場で働いているうちは何も大きな問題は起こらないのですが、問題になってくるのは、全く同じひとやモノに憧れている両者が一箇所に集まって、何かを実現させようとした時です。

そこには、必ず大きな対立が生まれてしまう。

片方は先人たちの型を模倣したい、片方は先人たちの見据えた目的や世界観を模倣したい。

その結果、お互いが選ぼうとする選択肢は、180度異なってしまうことも多く、そこで大きなバッティングをしてしまう。

そしてお互いに、全く相手の意図が理解できないというわけです。

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コスプレ型は、とにかくその見慣れた型に浸ることで安心したくてここに来ているわけですし、スタイル型は、先人たちの考え方を現代に当てはめた場合にどんな行動に出るべきなのかを考えたくてここに来ているわけですから、ある意味当然のことですよね。

そうすると、まったく同じものに「憧れ」を抱いているのにも関わらず、お互いの考えはず一生平行線のまま。

何度かこのブログでもご紹介してきた、仏教の「指月の譬え」なんかは、まさにこのことを端的に言い表していると思います。

「師を見るのではなく、師が指を刺した月を見よ」と。

師ではなく月を見て、月に向かっていることに確信を持つことができたら、師が創り出したスタイルであっても、その旧来型のスタイルから逸脱することは、全く恐れる必要はありません。

むしろ、その新たなスタイルの創造こそが、現代に生きる私たちに与えられている試練であり役割でもあると思うのです。

https://wasei.salon/blogs/83800fa54fa8

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この世には、ありとあらゆるジャンルにおいて、大小さまざまなコスプレとスタイルが混在しています。

もちろん、ひとりの人間の中でも「この分野はスタイル型で行きたいけれど、この分野はコスプレ型になってしまっている」という場合もあるでしょう。

いま自分が目指している先はコスプレなのか、それともスタイルなのか、自らの生き方や思想を問い直すうえでも、とっても大切なことだと思います。

先日書いた「気分のために浪費してしまわないこと」という話にも近いお話です。

https://wasei.salon/blogs/88983978b8db

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日の内容が何かしらの参考となったら幸いです。