何かを学び始めるとき、多くの人は「詳しくなったタイミングで、世間に発信しよう」と考えてしまいがち。

そして、あわよくば「その専門家ポジションになって、自らの仕事につながること」に期待して、コツコツと一から学び始めます。

でも、その「詳しくなったら発信しよう」という発想自体が実は大きな落とし穴のように思うのです。

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この点、現代に生きる僕らの弱さでもあり強さでもあると思うことのひとつは、「周囲からの反応(報酬)が遅いと続けられなくなってきている」という事実です。

何かを発信したりしている人は、既にもう気がついていると思いますが、たとえばTwitterなら30秒〜1分以内で、そのツイートがバズるかどうかの世間からの反応は返ってくる。

このような「反応」が遅いと、僕らはドンドン行動できなくなってきてしまっています。

社会の色々な仕組みも、このスピード感に合わせて変化してきているように感じる。(昨今バズワード化している「DX」なんかも結局のところ入力と出力のコストを最小化、最短化しようという取り組み)

この変化に対応できるようになった現代人の強みで言えば、「小さな反応であっても、そこに何かしらのシグナルを読み取って、すぐに改善を繰り返すこと」ができるようになっているということでしょう。

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多くのひとが考える「詳しくなったタイミングで、改めて発信しよう」というのは、この現代人の特性に大きく反してしまうのです。

また、もし仮にめでたく専門家になれたときに、頭の中に完成形が存在していたとして、それをアウトプットする作業は「反省文」とその本質が変わらない。

それは非常に簡単なようで、実はものすごく辛い作業です。誰にとっても必ず苦行となる。だからこそ、未だに反省文という文化がこの世の中に存在しているわけですよね。

本来のアウトプットする喜びというのは、執筆作業などを通じて、書く前の自分には知り得なかったことが、書く作業を通じて発見できること。

それを自らの体験を通して実感できるようになると、周囲からの「反応」なんてオマケみたいなものに感じてきます。

この際に自らの内部に訪れる「なるほど、だからか!」という発見こそ、学びの中で起きる一番楽しい変化です。

にも関わらず、自他共に専門家と認めるタイミングでは、もう遅い。素人対して向けた発信で、新たな発見んてなかなか降ってきません。

むしろ「なぜ一般の人々は、私にとってこの当たり前の事実が理解できないのか」と、その理解されない状況に苛立ち、苦しむことにもなりかねない。

そして、その頃にはきっと、全く違うものに自己の興味関心も移ってしまっているはずです。

どれだけ世間から求められているとわかっていながらも、反省文のような文章を書くぐらいなら、新たな分野の学びに時間を割きたいと考えるはずです。

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この点、僕自身は20代前半ごろから「ブログ」や「ウェブメディア」、「暮らし」ついてのテーマで自らの学びを日々発信してきました。

たぶん人よりも、「ブログ」の仕組みなどは未だに詳しいとは思いますが、今このタイミングで「ブログの始め方」のような内容を書けと言われても、もう絶対に不可能です。

今は「はたらく」や「対話」、「コミュニティ」や「倫理」「宗教」などの分野を日々学びながら、このサロン内で発信しています。

もちろん今も専門家でもなんでもない、ただのブロガーです。でも、好きなことを学びながら発信し続けていられているという自負はあります。

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さて、そうは言われても「アウトプットし始めて、三日坊主になってしまったらどうしよう…」と不安になるという方も多いはず。

でも、その不安を逆手に取って、発信を続けていくことのプレッシャーにすることもできます。自らの怠け心の退路を断つように。

僕も、このサロン内で毎日アウトプットすると決めてから、日々ものすごい感度でアンテナを立てながら、書籍を読んでみたり、関連映像を観てみたり、現地に取材に行ってみたり、人と会ったりしています。

そして、そこで学び得たこと(時にはまだ腑に落ちていないことも)ドンドン文字にして発信してみています。

問いの渦中にいる人間が発信するそんな生々しく荒々しい話が「熱量」となって、周囲にも少しずつ伝播していくように感じています。

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だからこそ、新たに何かを学びたいと思ったら、まずは何よりも先にその学びの過程を発信する「場所」を決めてしまうことが、非常に重要だと思います。

そして、そこに自らのインプットで得られた気づきや発見を流し込んでいく。

場所を決めて、その枠(ノルマ)を定めて、そして毎日必ずそのための「時間」を確保すれば(←ここ重要)、絶対にアウトプットし続けることはできます。

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プライドが邪魔したり、批判されたりすることが怖いひとは、このWasei Salonのようなクローズドの場を使ってみるのもいいかもしれません。

たとえそこでどれだけ恥ずかしい転び方をしても、見ているのはサロン内の人間だけと限られているわけですから。

友人や同僚、家族が見ていない場所で発信を行うことは初期の頃はすごく大切。

この点、公の場で匿名アカウントで発信することも選択できますが、実名で発信したほうがいいと思います。

匿名での発信は、その匿名性ゆえに多かれ少なかれ、必ず世間のアテンションを獲得したいがために、極端な発信に流れてしまいがち。

その結果、ダークサイドに堕ちてしまったひとたちを僕は本当に山ほど見てきました。

そんな悪魔の誘惑にのらないためにも、クローズドの空間で実名発信から始めてみるのは、非常に有効だと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。