今の日本には衰退産業と呼ばれるものが、たくさんあります。

また、今はまだわかりやすく衰退しているわけではないけれど、全体のパイが増えることがなくなり、提供者側だけがドンドン増えている業界というのもあります。

それも結果的には衰退産業のようになっているような状態です。

なぜなら、たとえ均等に分け合ったとしても、ひとりが得られる取り分は間違いなく減っていきますからね。

提供者側の新規参入のハードルが低いものほど、そのような構造に陥りがちです。

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さて、そうすると一体何が起こるのでしょうか。

必ず提供者側の多くは、定義を広げる方向に向かい「◯◯も◯◯である(ものすごく簡単なこと or 既に多くの人がやっていることも、定義のうち)」って言い始めるんですよね。

そうやって従来よりもガクンとハードルを下げて、必ず新規参入者の間口を広げようとするのです。

もちろん、無駄に高いハードルを感じてしまっているひとたちが、世の中にはたくさん存在していて、そのちょっとした不安や恐れさえ取り除いてあげれば、その「文化」の楽しさを理解し、参入してきてくれて結果的にパイ全体も増えるから、Win-Winのようになる場合は多いです。

でも、近年はむしろ、そのハードルをあまりにもラフに、何も考えずに下げすぎてしまっている事例が増えているように感じます。

彼らが考えていることは自分のことだけ、具体的には自己のフォロワーやお客さんを増やしたり、売上を増やすためだけに、ハードルを下げてしまう事例が散見されるなと。

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たとえば、最近だと「本」離れがドンドンと進んでいます。

そのため、読書を推進したい方々の中には「積ん読して、背表紙を眺めることも読書である」や「書店に向かう道中も、読書である」ってことを主張し始めて、読書のハードルを極端に下げる言説が過度に目立ちます。

彼らは書店を運営しているわけではなく、あくまで「本」の情報発信をしていて、フォロワー数や再生数に応じて、そこから広告案件を受けている場合が多いので、そのようなことも言えてしまうのでしょう。

でも、10年前にはそのようなことを大衆に向かって叫ぶような人はいなかった。ビジネス構造が変わると、このようなことを言い出すひとたちもいるわけですよね。

10年前までは、読書といえばやっぱり直接、本を手にとって読むことでした。

たしかに、読書好きからすると言われてみればその通りだなと思う側面もあるし、決して間違っていることを、彼らが言っているわけではない。

でも、その発信自体が本当に正しいことなのかどうかは、一度立ち止まって考えたほうがいい。

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いつもご紹介している京セラ創業者・稲盛和夫さんの言葉である「動機善なりや、私心なかりしか」という視点が、ここでは非常に大事になってくると思います。

あまりにも安易にハードルを下げすぎることは、本当に「読書」という文化にとって良いことなのかは、かなり怪しいラインにあるかと思います。

だからこそ、そのようなハードルを下げる発言は、自らが業界内で生き残るために渋々そう言わざるを得ない状況になっていないのか、本当に自分自身がそう信じていて、自分が広げていきたい文化や価値観に適っていることだと思っているのかは、ちゃんと自分の胸に手を当てて見定めたい。

決して、自己欺瞞には陥らずに、です。

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どうしても現代は、参入者がドンドン増えて、自らのフォロワーが増えること、それが圧倒的に善だとされてしまっています。

そうやって、全員が過度に近視眼的になってしまっている。

今週のVoicyのハッシュタグ企画が「モテる力」であることも、それを如実にあらわしていると思います。

ビジネスでもプラベートでも、とにかくたくさんのひとたちから「モテること」が良しとされ、成功とされてしまっている。

でも、たくさんのひとたちから、モテることが本当に正しいことなのか。

結局、それが自分の首を締めること、その一番の要因にもつながりかねない。

だからこそ、本来の編集というのは、適切なひとと適切な形で出会うことに、その意味があったはずです。

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じゃあ、具体的になぜ安易にハードルを下げてはいけないのか。

それは過去にも何度かブログに書いたように「インキュベーションされるやつらが劣化していくから」です。

広く注目を集めたはいいものの、素養やセンスのない彼らを導くのは本当に至難の技です。

満足に一般的なフォロワーさえ集められない人間が、安易に手を出してはいけない領域でもある。

それは喩えるなら、銀行から借金できない人間が、消費者金融から金を借りてビジネスを始めるようなもの。

自らの延命のために「◯◯も◯◯である」と間口を広げすぎた結果、そこに集まる人々がドンドンと劣化していって、最終的には自らも集まった人も一緒に足場を崩して崩壊してしまう。

大事なことは、自分が真の目的地(だと信じている場所に)彼らを一緒に連れて行くことができるのか否か、ってことだと思います。

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間口を広げすぎて、ハードルを下げれば下げるほど、自らの力で歩くことがままならないひとたちも同時にワラワラと集まってくるわけですから、目的地につれていこうという胆力を備えた強い自己が必ず必要となる。

ビジネスでもプラベートでも、モテようとするまえに、そこをしっかりと考えた方がいいと思います。

だから僕は、自らの分不相応のハードルの下げ方は、絶対にしないようにと心掛けています。

自分ひとりの力で導ける自信がまだないからです。

だからこそ、やらないこと、これ以上のハードルは下げないという部分のほうをいつも強く意識していて、その道筋を同時に明確に提示していたりします。(Wasei Salonの参加条件など)

ただし、最初はひとりでは無理だったとしても、少しずつまわりに理解者や賛同者を増やしていけば、一人の力で歩くのが多少困難なひとが数名入ってきたとしても、コミュニティ全体で彼らに対して親切に接することで、そのひとが自立するところまで支援することができるようにもなっていく。

だから、本当に大切なことは、まずは不特定多数にモテてしまうことよりも、「明確な核」をつくることなんだと思います。

そこから徐々に、その円の大きさを広げていくことです。

人間が一人でできることは本当にちっぽけであったとしても、信念の近い者同士の人間がともに助け合うことができれば、その力は無限大になっていくのだから。

そうやって、業界や文化の裾野を徐々に広げていくことのほうが、結果的に盤石なものができあがると思っています。

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長い時間がかかる大変な作業であっても、本来の価値を理解してもらうひとを増やす方向に尽力しないと、結果的に自滅してしまう。

私だけが自滅するだけであればまだしも、業界全体すら潰してしまう可能性もはらんでいる。

自らの仕事にもしたいと望むくらい本当に大好きだった文化が、この世から消え去る可能性があって、その片棒を担ぐことになってしまう。

そんな悲しいことはないはずです。すべては、急がば回れ。

現代は、あまりにも目先の利益にみんなが同時に食いついてしまい、完全にそのハードルを下げるチキンレースが各所で繰り広げられてしまっている。

先人たちが、それをやらなかった理由を、今あらためて考えたほうがいい。

中長期的な視座でものごとを考えられるひとがいないからこそ、今すごく大切な視点だと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。