最近よく思うのは、人間の「情動」は、主観と主観の間に生まれてくる、いわゆる「間主観性」。

だとすれば、その間主観性を共に耕すこと、その意志や覚悟をお互いに持ち寄ることこそが、何よりも大切な気がしています。

昨日配信をした最所あさみさんがゲスト回のVoicyのプレミアム配信の中で語った「自分の機嫌は自分で取れ」の危うさなんかも、まさにここにつながるなと思う。


言い換えると、ニーズやベネフィットだけでつながらないこと。関係性を構築する意志を持ち寄ることこそが、人間関係やコミュニティにおいていは何よりも大切なんじゃないか。

今日は、そんなお話をこのブログの中でも書いてみたいなと思います。

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この点、僕らはどうしても、自分のニーズやベネフィットを自分で満たすことが重要だと思いがちです。

それは自分という人間のなかに、確固たる「情動」があると認識しているからですよね。

でも本当は、情動は個人のものではなく「主観と主観のあいだ」に立ち上がるものなのかもしれない。

先日も紹介した、養老孟司さんと内田樹さんの対談本『日本人が立ち返る場所』でも似たような話が語られていました。

内田    情動はどうやって生まれるんですか?
養老    主観と主観の間に生まれてくる、いわゆる「間主観性」です。だから、従来の
科学の枠組みでは捉えられないんです。
内田    自分の内側にあるわけではなくて、間主観性、共同主観性の中において感情は生じるということですか?悲しみや喜び、愛情といった感情は、すべて自分の主観と他者の主観の間に生じる、と。
養老    そうです。
内田    それはでもその通りですね。


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これはとても納得感のある話だと思います。

たとえば、同じ景色を見ても、誰と見るかによって、感情がまったく変わる。

同じ言葉を聞いても、誰から受け取るかによって、その温度感がまったく異なる。

同じ場にいても、そこに流れている信頼の空気で、安心したり息苦しくなったりするわけですよね。

で、もし情動がそういう「間主観性」的な性質を持つのなら、「自分の機嫌は自分で取れ」は、少しだけ違う意味合いになってくると思いませんか。

つまり、実際には「不機嫌になる前に、ここ(私との関係性)以外のどこかへ行って、私以外の第三者や自然や環境と交わって、そこで満たしてきなさい」そんな命令に近くなる。

つまり、満たす営み自体が、最初から自分だけでは完結しないとわかっているからこそ、「この場所以外で満たしてからこい」となる。

そして「そのために、お金を稼げ!」という話にもなる。なぜなら、他人に満たしてもらうなら、他者が施してくれるサービスをお金を払って「買う」しかなくなるから。

また、そうすることで、資本主義の要請にも見事に叶う。結果的にGDPに寄与することになるわけです。

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そして、そんな価値観が社会の中で共有されていくと、「自分のことを自分(のお金)でケアできる人が優秀。そのうえで他者もケアできる人はもっと優秀。そうやって、基本的に各自で別の場所で処理して、この場には持ち込むな。」

そんな社会通念が、社会の中で自然に完成する。

そしてこれって、一見するととても合理的でスマートであり、なおかつ大人っぽい。なんなら現代の理想的な社会人像だとも思います。

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でも、冷静に考えて、コミュニティで本当に大事なことは「別の場所で満たしてこい!」ではないはずなんですよね。

もし本当に、情動が間主観的なものだとしたら、コミュニティにおいて本当に大事なことはむしろ、その真逆なんじゃないかと思う。

つまり、「ここじゃない場所で、満たしてこい」ではなくて「ここで一緒に耕そうとする意志をいつだって、持ち寄り続けよう」というその信頼感。

本当に大事なことは「サービスで解消して、機嫌よく振る舞え!」ではなくて「ここでお互いに何があったとしても満たし合おう、何があっても、その意志を持ち続けよう」という、そんな優しさ。

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寅さんを観ていても、これは本当にそう思いました。

もちろん時代もあるかも知れないけれど、寅さんの妹であるさくら(倍賞千恵子さん)は、エステにも行かないし、アフタヌーンティーにも行かない。

じゃあなぜ、さくらを筆頭に葛飾柴又のコミュニティのひとたちは、健やかな関係性を構築できていたのか。

それは、たとえ嫌なことがあっても、お互いに修復し合おうっていう強い意志を持ち寄っているからだと思いました。

でも、それっていうのは、経済成長には一切寄与しない。

だとすれば、そのようなコミュニティは、経済成長のためにもぶっ壊さなければいけなかった。

家庭のなかや、親戚同士で受け入れあって満たさずに、外に求めてもらったほうが都合がよかったわけです。それこそが「個人の自由」だと信じてもらって、です。

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今日のこの話は、言い換えると、目的別の関係性で繋がることがもたらすジレンマでもあります。

推し活、旅行、グルメ、いくらでも目的別のお友達をつくってくれさえすれば、その都度ひとはお金を使ってくれる。だから、そんな関係性が尊ばれる。

でもそうじゃなくて関係性を構築しようとする意志、間主観性こそを一緒に育てようとする覚悟、何かが壊れたときに共に立て直そうとする意欲のほうが、圧倒的に大事なんだろうなあと。

そういうものを互いに持ち寄ることが、いま僕らが本当の意味で「欲しい」と願い、でもこの世の中にまったく存在しないと思っているものなんだと思います。


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そして、それがないと思うから、余計にお金一辺倒になり、職場や家庭内で機嫌よくいられるためのサービスをバンバン買うことができるための地位に執着してしまっている。

でも本来、それはお金とは何も関係がないはずです。

ただただ、お互いに敬意と配慮と親切心を持ち合って、集い合うだけで良かったはずなのです。

それぞれの意志の持ち寄りこそが、場の温度を生み出し、情動の質を見事に変えてくれて、結果的にコミュニティ内の信頼を増やしていく。

そして勘の良い方は既にお気づきだと思うのですが、僕は、これってある意味で「一般意志」にも近いものだと思っている。

個々の利害(ニーズ)を越えて、「この場を育てる。守る」という方向に意志が委ねられているときにだけ立ちあらわれてきてくれるもの。

逆に言えば、ここを自己責任にした瞬間、あるいは、 AIなどに丸投げした瞬間に、その何かが死んでしまう。いちばん大事な場に必要な何かが完全に消え去ってしまう。

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ここまで考えてくると、結局、問いはシンプルになるなと思います。

もう、手は差し伸べられているわけだから、あとは自分が共にそこに加わろうとするかどうか。

「私は、あなたと共に耕します」という参加の宣言だけでいいはずなんです。

そのお互いの宣言、参加の意思表面が積み重なって、間主観性は、人々の間のなかで育っていく。

その結果として、自分の機嫌を自分だけで満たす必要なんてなくなるし、むしろお互いになんとしてでも、心地よくあれるように努力を繰り返す。

自分のほうを、すぐに悪人にしてしまうこともできるようになる。


そして黙ってお互いのことを見守り合うこともできるようになる。

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ここから少し話が広がるけれど、日本ってこういう間主観的な関係性、つまり系譜を継ぐときに、一番底力を発揮するのだと思います。

たとえば、文化祭文化なんかもそうですよね。

文化祭文化の特殊性は、先に実行している先輩たちがいて、必ずあとを継ぐ後輩たちがいる。あくまで自分たちは、この3年間だけを担う役割でしかない。

で、それを社会のなかでも行われていて、いちばんわかりやすいのは、去年の大阪万博であり、55年前の最初の大阪万博を模倣し、真似ただけだったんだという話です。

そして、繰り返しますが、日本人ってこういう系譜を継ぐ時に一番底力を発揮する。間に挟まれること。

そのときにこそ、「遊び心」なんかも同時に生まれてくる。ミャクミャクみたいなキャラをつくっちゃう。それは、「いたずら心」と言い換えても良い。でもそのいたずらや遊びが発生するのも、継いでいる自覚があるからこそ、なんですよね。

「大きな系譜の中でなら、ちょっとしたいたずらしてもいいでしょ」という子供心。それが日本のクリエイティビティの本質だと僕は思う。

だからどんなタテの系譜の中に、自分を巻き込むのかは本当に大事なこと。継承という大きな枠組みのなかでこそ生まれてくる間主観性があるからこそ、その中で自由に遊べる、という逆説です。

情動に対する話から大きくそれてしまっていますが、でもこれらもすべて間主観性に対する信頼、そのときにこそ立ちあらわれるクリエイティビティの話そのものだと思います。

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とはいえ、最後に全部ひっくり返すようなことも同時に書いてしまうのですが、じゃあただただ、敬意と配慮と親切心だけを持って、集い合うだけでいいのか?

決してそうじゃないと思います。

このあたりは、ほんとうにややこしくてごめんなさいという気持ちです。

「間主観性」が大事だと言いながら、同時に思うのは、だからこそ、徹底して自分の足元を掘り下げなければならない。

もっともっと自己を掘って、掘って掘って掘って、掘った先の裏側でつながるような感覚です。もちろん、これは過去に何度もご紹介してきた村上春樹の井戸のメタファーにもつながる。

関係性の中で生きるためにこそ、孤独に自己を掘る。

寅さんにとってはそれが「旅」だったのだろうし、このアンビバレントな矛盾こそが、何よりも大事な視点だなと思っています。両方を同時に持ち合わせる必要がある。

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最後にまとめると、「自分の機嫌は自分で取れ」という言葉は、たしかに一面では、人を自立させる。

でも同時に、情動を「個人の所有物」のようにして扱いすぎると、関係性を耕す意志が枯れていってしまう。

間主観的な感覚、「主観と主観のあいだ」を共に育てようとする覚悟こそが、コミュニティにとっていちばん大事なんじゃないかと思っている。

そして、もう手は差し伸べられている。あとは、自分がそこに加わるかどうか。そしてそこに参加した上で、自己の足元を丁寧に深堀りしていくことができるかどうか。

あまりにも矛盾していることを言っている自覚はあるのだけれど、いま本当に大事なことだと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。